挑戦の軌跡 榎本了壱(インタヴユアー=新井建一 + 藤森精太郎)

『銀杏 No.22』(1998年発行)より

榎本 了壱さん
(高校17回卒業)クリエイティブディレクター・アートプロデューサー



◆あなたは一体、何者ですか!!
 私は世間のフキデモノ、いや、コワレモノかな。ともかく自己紹介がとってもやりにくいんです。マルチブル・クリエイターっていっても、やっぱり分からないでしょ。

◆素敵な人たち「神代時代の思い出といえば…」
 そうですねえ、卒業が昭和40年(1965年)ですよね。時間がずいぶん立ちましたから、もう自分のなかで記憶が変形してしまってると思いますが、なんとなくゆったりとした、のんきな田舎っぽい学校じゃなかったですか。それから、魅力的な女子生徒がけっこういましたね(笑)。これは歪んでいません。いつもそわそわしてました。それに僕は文科系のクラスでしたから、3対2くらいで女子が多かった。高校生になると俄然女子は大人びてくるじゃないですか。それには圧倒されてましたよ。僕が子供っぽかったからかも知れないけど、先輩にも後輩にも、なかなか素敵な人がいましたね。

◆妹尾先生「女子生徒のことだけですか。」
 美術を教えてくれていた妹尾先生が好きでした。チャウチャウみたいなおじいちゃん先生で、フランス擬古典派の流れを汲むアカデミックな油絵を描いてました。じみな先生でしたが、そこはかとない情のある人でした。
 僕が日芸(日大芸術学部)を受けたとき、持っていった作品がニ科展に入選した作品で、面接の教官が、おまえが描いたんじゃないだろうって信じてくれない。それを試験から帰って妹尾先生に報告すると、とんでもないっていってその場で、日芸に電話を入れてくれたんです。僕はそんなことしたらかえって落とされちゃうって心配でしたけど、でもやっぱり嬉しかったですね。

◆源泉「結果は…」
 受かりました。でも芸大を落ちたときにはほんとにがっかりしてましたね、まるで自分のことみたいに。
あらためて申し訳ないって、思いました。妹尾先生は芸大出身だったんですね。僕にも行って欲しかったんでしょう。高2の16歳で二科展に入選したりしてましたから、期待していたんでしょうね。デザイン部門の最年少人選ということで。高3の時も入選しましたけど。
 そう、このことは僕にとってその後の仕事に決定的なことになります。今の僕の仕事で最も大切にしているのは、アートのコンペティションです。1978年にJPS展(日本パロディ展・パルコ主催)という公募展をやったのをきっかけに、日本グラフィック展、その後オプジエTOKYO展、現在はアーバナート展と、もう20年もアートのコンペティションをプロデュースしています。合わせて40回ほど、7、8万点の作品を見てきました。そこからは今活躍している日比野克彦、タナカノリユキ、ひびのこづえ、谷口広樹、長島有里枝等など、沢山の優秀な作家が出ています。これも、僕が二科展に入選したときの興奮と喜びが、ひとつの源泉になっているんだと思います。



◆たけしさん「それで『たけしの錐でもピカソ』の審査員をしているんですね…」
 それはちょっと違うかな。あれはあくまでも、テレビ仕掛けのエンターテイメントですから。でも一緒かな、才能を引き出すってことでは。たけし(北野武)さんって方はやっぱり面白い人です。なにしろ審査員より先にコメントしてしまう。それが的を得ているからこちらがコメントしにくくなるんですよ。またそれを楽しんでいる。楽屋でもお菓子食べながら、映画のことやいろいろ話してくれます。同い年でしょ、なんとなく環境というか、状況がわかるんですね。たけしさんはテレビのほかにも、映画、小説、絵、ピアノなんでもやるでしょ。まあ、凄いブロですよね。

◆同人誌「榎本さんは、詩も書いてましたよね。」
 わはは、よく覚えてますね。僕は少年詩人でした。ロートレアモンに心酔し、ランボオに傾倒し、立原道造を密かに愛し、中原中也を口づさみ、ハ木重吉に慰められ、谷川俊太郎に嫉妬しって感じでした。
 『かいぶつ』って同人誌をやってました。これも高2のときからだと思います。九州から転校してきた先輩の黒川俊郎(本名は丸亀敏邦)と、同級の赤羽良剛(筆名は松本團)と一緒に始めました。神代の図書室にあったガリ版を借りて刷ってました。人気があってよく売れましたよ。そのうち左さんというプロの謄写版屋さんに、本格的に手ほどきを受けて、ガリ切り、ガリ刷りは完璧になりましたね。今だったらもちろんパソコンで作っ てるんでしょうけど。そのアナログでマニヤックなところがよかったんですね、きっと。  これは早稲田大学の学生なども巻き込んで、現代詩の雑誌でも結構評価されましたし、19歳のときには『粘液質王国」という詩集も出しました。歴程賞やH氏賞を獲られた憧れの吉原幸子さんに後書きを書いていただいて。
 このことも、後の僕にとってはとっても大きな意味を持ってくるんです。大学(武蔵美)の先生だった粟津潔さんの手伝いで、1968年から渋谷に出来た天井桟敷の地下劇場とその上の喫茶店の内外装のデザインをして、主宰者の寺山修司さんや、演出をしていた萩原朔美に出会います。
 萩原とは74年から『ビックリハウス』という雑誌を作ることになるんですが、やっぱり同人誌をやってたことが大きいでしょう。考えてみると、高校時代は絵を描いたり、詩を書いたり、好きなことをしていたから、とっても幸せでしたよ。でもそのことが今の僕を形成していることは、間違いありません。



◆サブカル「『ビックリハウス』は面白かったね。」
 70年代中頃、丁度「サブカル」(副文化)という概念が出てくるころで、まさに若者文化の典型的な雑誌になっていったといえるんでしょうね。投稿、読者参加、パロデー、なんでもアリーノのハチャメチャぶりが受けたんです。作っていても反応が凄くて、楽しかったですよ。ここから、雑誌作りだけではなく、イベントや、テレビ番組いろんなことをするようになっていきます。今の僕の仕事の原形が全部あります。
 いまでもビックリハウサー(ビックリハウスの読者をそう呼ぶ)は沢山いて、大槻ケンジさん、鮫肌文珠さんとかがんばってますし、YMOや、トンネルズ、竹中直人さんなんかが常連でしたね。取材に来る編集者の人などに「私、ハウサーでした」なんてよくいわれますよ。

◆学校「今の若い人のことをどう思われますか。」
 うちは今、上が高2で、下が中2の双子。三人とも男ですから、喧嘩なんか始めたら凄まじいことになります。もっとも僕も5人兄弟で男が4人でしたから、凄かったですけど。ほらライオンの子供がジャレ合いながら狩りや闘いのトレーニングをするみたいなものだと思うんです。やっぱり、極限までいかないためのガス抜きって必要なんですね。  去年、3人が中学、高校と受験で、随分学校を見学してきましたけど、いろいろですね。一言でくくることは出来ないですよ。なにかと「今の若い人は」っていうじゃないですか、でも結構偏見と誤解に満ちている。
 なんとなくルーズソックスと、キティちゃんですっきりくくっちゃうような、ジャーナリズムの美味しいニュースソースってところがあるけど、(確かにそういうところもあるんでしょうけど、)とんでもないってところもありますよね。でもやっぱり、全体的には自由で豊かな時代に生きているんだなって、思いますよ。
 それにしてもほんとに勉強はよくやってます。長男は都立にいってますが、塾通いも始めましたから、やっぱりいい大学に入りたいんでしょうね。でも、塾の先生にはとっても興味を持っていますよ、授業が面白いんだそうです。これは神代の回窓会誌にはあまり相応しくない話題かも知れないけど。でも、先生との相性って、生徒にとって決定的でしょ。  僕も時々、大学や専門学校で先生やりますけど、大変な仕事だなって思いますよ。萩原(朔美)はいま、多摩美の教授してますけど、プロになると、手抜きの仕方が上手くなるのかも知れない。

◆寺山修司「萩原朔美さんは、朔太郎のお孫さんですよね。」
 「榎本、お前はいいよな、比較される親も祖父もなくて」って、若いころはいってました。母親も作家の萩原葉子さんでしょ。すごいプレッシヤーですよね。でも、寺山さんが僕の詩を結構面白がってくれていたことも、後で萩原から聞きました。寺山さん、僕には直接いってくれませんでしたが。
 僕は天井桟敷は劇団員ではなかったんですが、ほんとのこというと、僕は寺山修司という人、最初ちょっと疑ってたんです。なんかインチキっぽかった。詩人のくせに前衛演劇してたりして。でも付き合っていくとやっぱり面白い人なんですね。
 24歳のとき(71年)には、寺山さんの映画『書を捨てよ、町へ出よう』や、ヨーロッパ公演の美術を担当したり、それからポスターや雑誌、単行本の装丁など、いろいろチャンスをもらいました。寺山さんは自分が若くしてデヴューした人でしたから、若い才能を馬鹿にしないんですね。評価してくれるんです。
 大学出てからも、就職しなかったのが、反対に面白い人や仕事との出会いのきっかけになるんですから、変なもんです。寺山さんや、粟津潔さんのマルチプルな仕事の仕方は、僕を勇気付けてくれたと思います。なにをやってもいいんだって。  今年は寺山さんが亡くなって15年目、僕が参加している日本文化デザインフォーラム(代表・黒川記章)の会議が青森であるんです。青森は寺山さんの出身地、それに寺山さんもこのフォーラムのメンバーでした。
そこで一日だけの天井桟敷と題して『市街劇・人力飛行機ソロモン 青森篇』を僕の企画プロデュースで11月1日に上演することになりました。天井桟敷の旧メンバーが40人ほど青森にいきます。青森はパ二ックになりますよ。楽しみにしてます。

◆売れない芸能人「ラジオにも出てますよね。」
 NHK第1の『サンデーラジオマガジン』ですか。あれはピーター・バラカンさんと、永千絵さんの3人で変わり番こにやってます。毎回、ゲストが来てくれて、いろんなジャンルの人と話しが出求るので楽しいんです。先日は、熊谷真実さん、素敵な人でした。番組中笑いっぱなしでしたよ。
 日曜日の午後4時から6時。ああいうことをしていると、よく売れない芸能人みたいに思われることがあるんですが、仕事はちゃんとしてますよ。

◆選択「今の『アタマトテ」という会社は?」
 頭と手を使って仕事をしようって。『ピックリハウス」を12年やったら社員が30人以上になっていて、経営のことばっかり考えるようになってました。僕や、萩原は経営者には向いてない。そこで解散して、『アタマトテ」を始めました。ほかに、里見ハ犬伝みたいに、六つの会社が独立して仕事を始めるようになりましたが。今は社員5人、13年目。でもなかなか濃い仕事してます。
 例えば、89年の世界デザイン博では、住友館の総合プロデュース、それに横浜博のシリーズキャンペーンポスターのアートディレクション。92年にはボストンのチルドレンズ・ミュージアムの『ティーン東京」という展示のアドバイザー、93年にはサッポロビールの第一工場跡地に「サッポロスプリングス」という温泉施設をプロデュースしました。それから95年には「NHKスタジオパーク」の展示プロデュース、今は丸ビルのたてかえにともなう、丸の内周辺のアートプロジェクトと、ともかく無節操にいろんなことしてます。
 でも、考えてみると僕は、なんだか自分で重要なことを何も選択したり、決定したりしてこなかったような気かするんです。就職のときも、なんとなく会社員になるというイメージが持てなくて、ズルズルとしなかった。『ビックリハウス』も萩原に誘われてやった。仕事もなにか売り込んで獲得したって覚えがない。なんか僕には理想とか、強い願望とか、そういった自己実現のためのプログラムってものが案外、希薄だったように思います。
 それがなんでこんな自由業みたいなことをしていられるのかということですが、どうもまわりの人が「これやってみたら」みたいに、ささやかなチャンスをくれる。チョイス(選択)される。結構こういうことって人生には多いと思うんですが、それにわりとこまめに応えてきた。
 なんか人間というのは、自分で自分の生き方を選択し、プログラムして、それを実現するために生きてくことが大切なんだ、なんてなんとなく考えるじゃないですか。どうやら僕は反対に、周囲のささやかなチョイス(選択)に応えることで、自分自身を作り上げていくタイプの人間なんだって、最近思うようになりました。選んで在るんじゃなくて、選ばれて在るみたいな。
 太宰治や、ヴェルレーヌがいうみたいに「選ぱれてあることの、恍惚と不安」なんて、エリートっぽいキザな表現とは、もちろん違いますよ。単なる優柔不断なんですけど。



◆おやじ腹「それが若さの秘訣ですか?」
 いやいや、それは「若いですね」といわれるくらい歳をとったってことですよね。自覚してますよ。でもね、この前自分が出ているテレビをたまたま見てたら、すごい中年太りしてるんですね。それでダイエットしました。3か月で5キロ痩せました。なにがいいって、ささやかなナルシズムが甦ったってことです。僕は三枚目ですが、小さい頃から、なんとなくナルシズムみたいなものがあったんですよ。で、今ごろになって何であれ、やっぱり自分で自分を認めてやるって、大事なことだって再認識しましたよ。
 このくらい(51歳)になると、もう自暴自棄というか、自分に愛想尽かして、諦め始めるじゃないですか。
 おやじ腹でもいいって、居直るじゃないですか。まあそれもひとつの選択ですね。それが自然かも知れない。でもやっぱりおやじ腹はかっこ悪いよ。かっこ悪いことを認めたら、もう僕の仕事なんてズルズルになっちゃう。だから、この境界線をまたぐとき、僕はリタイヤするんでしょうね。ほっとするんでしょうね。なんにも気にせず、悠々と、おやじ腹で、生きていくんでしょうね。

2015年10月17日投稿