神代高校の同窓会から自分のことを書いてほしいと依頼があった。だいたい過去のことをよく覚えていない私が、この原稿を書くにあたっていろいろと思い出してみると、恥ずかしくなるほど多くの人に迷惑をかけ、支えられてここまできたのだと改めて痛感したのである。
2009年6月、読売新聞社の編集委員になった。新聞記者になって今年で25年。うち20年近く、新聞の家庭欄を担当し、働く女性や家族の問題や食生活、ファッションなど暮らしに関連する様々な記事を書いてきた。どんな時代でも、人々の毎日の暮らしが少しでも豊かになるような、そして楽しくなるようなヒントや考え方を提供できればというのが基本的な姿勢だ。 特にファッションに関しては、最高峰と呼ばれるパリやミラノのコレクションに、1996年、読売新聞記者として初めて定期的に取材に行くようになった。そして、1999年秋、日本のメディアとして初めてコレクションの様子をインターネットで速報した。コレクションで発表された最新の婦人服の数々を、当時としては世界一速くネットで見ることができるようになった。ネット報道などという言葉が確立される以前のことである。
考えてみれば、小学校のころから学校の勉強が嫌いで成績が悪く、クラブ活動にも参加しなかった私の人生で、最も長続きしているのが新聞記者だ。入社半年ごろまでは何度も「会社を辞めたい」と悩み、そのことでずいぶん両親にも心配をかけたが、なんとかここまでやってきた。こんな私でも水が合う場所があったというのが正直なところだ。 仕事の時間は不規則だし、働いている時間も人よりは長いかもしれない。習い事もなかなかできない。何かが起きればすぐに会社に向かうし、仕事の関係で土日に出勤するのもしばしばだ。
それでも新聞記者を続けることができた理由の一つは、多くの人に出会い、自分の知らない世界を知ることができるということだろう。自分の世界なんて小さくてたかがしれている。でも、記者なら会いたいと思う人に取材することができるし、新しい世界に飛び込み、違った価値観と出会うことができる。その新鮮さと面白さは日ごろのつらさを消し去ってくれるほどのものなのである。その繰り返しで、25年間があっという間に過ぎてしまった。
人生はなかなか思い通りにならないものだと思う。受験、就職、そして仕事。私の場合、自分の第一希望が実現したためしがない。
第一希望がかなわなかったのは、高校受験が最初だった。当時は学校群制度があり、74群(武蔵、三鷹)に行きたかった。特に武蔵高校までは自宅から歩いて10分。寝坊もできるし、自動的に大学にも行ける、などと勝手な夢を描いていた。が、内申書の成績が足りず、担任から無理との烙印を押され、75群(府中、神代)に志望を変更せざるをえなかった。ならば、自宅から比較的通学時間がかからない府中に行きたい、と願ったが、合格して行き先は「神代高校」。記憶は不確かだが、我が中学から75群を受験した中で、神代に行ったのは私だけかもう1人ぐらいだった。「なぜ私だけが」と悲しかった。
神代での生活は楽しかった。といっても勉強や授業についてはほとんど記憶にない。文化祭のためにクラスで映画を作ったり、お昼ご飯を食べに仙川駅近くの喫茶店やうどん屋に行ったり。 ただ、決してよい生徒ではなかったように思う。1年の時には、男子生徒のまねをして、昼休みに中庭から教室への出入りに窓を使っていた。スカート姿で教室の窓から入ろうとしたところ、担任の桂規子先生に見つかり、「窓は出入りするところではありません。ドアから入ってきなさい」と怒られた。また、おなかがいっぱいになった午後の授業では睡魔に負けて、ぐっすり昼寝をしたことも1回や2回ではない。
大学受験が思い通りにいくはずなどなかった。勉強も大してせず、成績は悪く、模擬試験の結果もさんざんだったのだから当たり前だ。にもかかわらず、第一志望の国際基督教大学をはじめ、いくつもの大学を受験。さらに滑り止めに短大も受験したが、全敗。当時、女子生徒の浪人は極めて少なく、そのうちの1人となった。 やむをえず東京都内の予備校に通うことになったが、ここでもやはり勉強嫌いがでてしまった。好きなテレビ番組があると、そちらを優先するため予備校を休む。また急に料理に関心を持ち始め、浪人生なのに新宿にある料理学校に通いはじめた。3年の担任だった穴井朝一郎先生は「料理学校に通って、大学受験の方は大丈夫なのか」とずいぶん心配して下さった。睡眠時間を削って必死に勉強したのは受験までのわずか2か月程度。結果は、第一志望の国際基督教大学が再び不合格に。
結局、津田塾大学英文学科に入学した。だが、全国から集まった優秀な女子学生が地道に勉強する校風についていけなかった。共学で育ってきた私にとって女子校はどうしても耐えられず、授業をさぼっては他大学の男子学生と遊び回る毎日。成績がいいはずなどなく、「つまらない」と不登校になりかけていたところに、降ってわいたような新聞記者の父のアメリカ転勤話。すぐさま行くことを決断し、大学を中退した。
アメリカ・ニュージャージー州での2年半の生活はとても面白かった。自宅から車で通える地元の大学に編入。英語は小学校の低学年の時、父親の仕事の関係でロンドンで暮らしたことがあったので若干はわかったものの、大して残っていなかった。それに、小学生の英語と大学生になってから使う言葉は違う。授業では苦労したが、充実していた。
「映画の歴史」という講座ではハリウッドができる前の映画産業の話から現代まで、毎回1本ずつ映画を見てレポートを書いた。英語でのレポート書きには四苦八苦だったが、映画を通じて世界が広がるような感じだった。これがきっかけで映画に熱中し、家庭教師で稼いだお金を映画とブロードウェーのミュージカルを見るのにつぎこんだ。このころは年間100本も映画を見ていた。
英語を第2外国語とする学生向けの英語クラスは各国から学生が集まっていた。ターバンを巻いてアタッシェケースを持ち、スポーツカーで大学にやってくるインド人学生。「アメリカの学生は政治に燃えていない」といつも怒っていたギリシャ人学生。「幼いころから両親はいつも旅をしていて乳母に育てられた」という南米の金持ち。私と英語の会話に行き詰まると漢字を書いて理解し合った香港からの留学生。これまで世界地図でしか見たことがない国からの学生ばかりだった。
国際問題になると、学生たちが自国の立場を主張する。まるで国連にでもいるようだった。真っ向から対立することもあれば、何だかよくわからないことも多かったが、「こんな考え方もあるのか」と発見が多かった。必ずしも自分の価値観と一致するわけではない。でも「なぜこの人はこういう風に考えるようになったのか」と知りたくなって、その国について調べたり、新聞記事を読んだりするようになった。
もう少しでアメリカの大学を終えるというところで、父が帰国することになった。私は日本の大学に戻りたくなかったが、当時のアメリカは失業率が10%を超え、治安も悪かった。父は「1人だけ残すわけにはいかない」というため、編入試験を受け、三度目の正直で国際基督教大学(ICU)に入った。
ICUは海外からの学生が多く、英語で行われる授業もたくさんある。編入してから最も力を入れたのはアルバイトだ。NHKの番組の編集の手伝いで、当時「NHK特集」の制作班に入り、みんなが取材してきたビデオに何が入っているかを記録する係だった。その班は「管理教育」がテーマの番組を作っていた。編集前のビデオには様々な場面が映っている。「世の中でこんなことが起きている」とか「社会にこんな矛盾があっていいのか」と驚きがあった。この時初めて、報道の世界に進むことを考え始めた。みんなが知らない世界に光をあてたいと思った。自分自身が、知らない世界を見たかったからだ。
NHKの報道記者を目指し、大学の就職課に相談したものの、NHKを受験するには学校推薦が必要で、私の成績は推薦の基準に満たないと、門前払い。この時代、女子学生の就職は決して良くなく、女性の場合、「自宅通勤、現役」という二つの条件を満たさなければまず無理と言われた。私はといえば、既に大学は3つ目で、9月編入の6月卒業見込み。年もとっており、まるで就職試験に落ちるための条件をそろえたようだった。そんな悪条件にもかかわらず、日本テレビ、フジテレビ、読売新聞、朝日新聞が受験資格を与えてくれて、結果的に読売に入社した。卒論の担当教授で、アメリカ政治の権威である斎藤真先生にも「ちゃんと3月までに卒論を書き終え、卒業できるのか」と心配をおかけした。
読売では振り出しの水戸支局で2年間、事件や事故を担当するサツ回り、県政、選挙などを担当した。東京本社に転勤になり、家庭面をつくる当時の婦人部(現・生活情報部)に異動になったが、ファッション担当を言われた時には正直言って心外だった。担当者が相次いで異動になり、もう担当する人間がいない、と言われた。ファッションがやりたくて新聞社に入ったわけではない。国際部志望で、アメリカ特派員を夢見ていたが、希望はかなわなかった。
今でこそ女性記者の数は増えたが、当時はまだ数えるほどしかおらず、しかも私は入社2年目で結婚しており、「結婚した女性は特派員にはなれない」と言われた。今思えば、それが本当の理由ではなく、私に適性がなかったのかもしれない。
ちょうどこのころバブル経済が崩壊し、日本のファッションは華やかな時代に終わりを告げた。ファッションショーが開けないデザイナー、倒産するブランドも増え続けていた。暗いニュースしかなく、華やかさも消えていき、私はつまらなくてくさっていたが、世界的なファッションデザイナーの三宅一生さんや森英恵さんから「世界のファッションの中心、パリコレクションに一度は取材に行くといい。日本とは全く違って、ファッションが文化として認められているから」と勧められた。
当時の上司に「海外のコレクション取材に行かせてくれ」とお願いし続けた。欧米の一流紙にあって、日本の新聞にないものが大きなファッションのページだったからだ。数年後、夢が実現した。
96年、初めてパリコレクションに出張に行き、そこにまた「世界」があった。世界のファッション市場や流行を生み出していく欧米の企業やジャーナリストが常にファッションショー会場の中心におり、存在感の希薄な日本が端に追いやられている。ショー会場は世界の縮図であり、美しい服を発表する裏側には、各国間の激しい競争がある。デザイナーもバイヤーもジャーナリストも競い合う。読売新聞も日本を1歩出れば無名。席がもらえず、柵にしがみついて地べたに座ってもショーを見た。
国際部で特派員にはなれなかったが、ファッションを手段にして世界を見るのも面白いと思い始めた。それが日本人の生活にどのような影響を与えるかを記事にしていけばいい。加えて、世界の中での日本がどうあるのがよいかをファッションを通して考えるようになった。
日本製品は、品質などはすばらしいが、世界の舞台では必ずしも勝者になれない。チャンスをものにできない日本。こうした日本の状況や製品をもっと日本人がきちんと知り、改めて世界で勝負しなければならない。記者として、日本のもの作りを応援しようと決めた。ファッションだって華やかなデザイナーだけが作っているわけではない。ファッションを支えるすばらしい生地などが日本で作られていることを知らせることも私の仕事だと痛感した。
2009年、転機が訪れた。前年、会社から「アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校で教えないか」という打診があったのだ。全米有数の名門校である同校にはジャーナリズム専門の大学院がある。読売新聞と同校間のプロジェクトがあり、そこに講師として半年間派遣されるというものだ。アメリカの日本報道には必ずしも正確でないものや偏見があるものも見受けられ、より良い日米関係構築のために、読売のベテラン記者が毎年1人、日本社会について講義し、アメリカの若きジャーナリストに日本に興味を持ってもらうのが目的だった。仕事に行き詰まっていた時期だっただけに、どんなに大変なことかも考えず、「行きたい」と即答した。
授業は週1回だが、1回3時間。15回分のレジュメを作ったが、3時間も英語で教えるなんてしたこともない。講義は主にバブル経済崩壊後の日本社会の変化に焦点をあて、「日本ではなぜ毎年3万人もの自殺者がでるのか」「日本社会における外国人」「日本のソフトパワー」などをテーマに話した。いったん日本語で授業の内容を全部原稿にして、それを英訳していく。1回の授業の準備に週の半分以上を費やした。自信がないから当初は自分の原稿を授業で読み上げたが、次々に質問され、必死に答えるうちに講義の流れがめちゃくちゃになることもあった。質問に即答できず、次の授業までにいろいろ調べもした。
人生でこんなに勉強したことがないというほど机に向かった。「もっと学校でちゃんと勉強しておけばよかった」とつくづく思ったものだ。大学院生はアメリカ人だけでなく、各国のジャーナリストも多く、彼らとの交流で各国のジャーナリズムの現状や課題を知ることもできた。
私は自信のなさゆえ、授業の時、しょっちゅう学生に「英語が下手でごめんなさい」とか「私の授業がわかるか」と無意識のうちに言っていたらしい。学生たちから「もっと自信を持て。教えている中身がすばらしいのだから」と言われた。学期の最後には受講した学生の評価を受けなければならないが、優秀な成績をもらった。私は教えに行ったのだが、結局は大学院生から学んだことの方が比較にならないほど多かった。
50歳を目前にして、「頑張れば、まだまだいけるぞ」という自信を手にした。 ◇写真 だらだらと私の歩んできた道を書いてしまったが、何とかここまで来ることができたのは、周囲の理解と忍耐あってのことだと思う。ただ、私は負けず嫌いだった。いや、だんだん負けず嫌いになったのかもしれない。「こんなことに屈してたまるか」と怒ったり、「この先、もっとワクワクすることがあるかも」という期待感があったりするからだろう。いつのまにか他人と比較することもやめた。この年齢になって自分は劣っていると考えたところでどうしようもない。それより「自分が何をしたいか」をまず考えるようになった。
私のような者でも神高生にアドバイスできるとすれば、自分が今いる世界より大きな世界があることを知り、勇気を持って挑戦してほしいということだ。自分と同じ価値観を持つ仲のよい友人たちといることは快適だ。ただそれだけではつまらないし、進歩がない。違う価値観を知ることで、自分を客観視することができる。何もかもスムーズにはいかないかもしれないが、その経験自体も収穫なのだと思う。失敗も血となり肉となる。そして楽しいこともたくさんある。恐れないでほしい。
読売新聞編集委員
1960年生まれ。国際基督教大学卒。1985年、読売新聞社入社。水戸支局、地方部を経て生活情報部勤務。2007年、生活情報部次長。2009年1-5月、カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院講師を勤める。2009年6月より編集委員