挑戦の軌跡 岩石研究者への道

『銀杏 No.35』(2011年発行)より

 私が神代高校を卒業してからちょうど40年が経ちました。そして、私が1年生の時のクラス担任で、地学の授業を担当され、地学部の顧問でもあった羽鳥謙三先生が逝去されてから2年が経ちました。羽鳥先生は、教員になられてから定年まで37年間ずっと神代高校に勤められましたが、その間に何冊もの専門書を出版され、関東ローム層に関する研究で日本地質学会から学会賞を授与され、晩年は名誉会員に推挙されるなど、日本のこの分野の学問をリードする研究を続けられました。私が地質学の研究者になったのは、羽鳥先生の影響が大きかったと思います。ここでは、編集部の求めに応じ、私の高校時代からの遍歴をお話しし、在校生や若い卒業生の進路選択の参考に供したいと思います。

根上隕石の偏光顕微鏡写真(1995年)

画面横幅1mm 放射状の結晶が集まった丸い部分が特徴の球粒隕石(コンドライト)

◆神代高校時代

 私は試験が苦手でした。高校入試では、中央線沿いの某都立高校を受験しましたが、合格できず、途方にくれました。幸いにも、自宅から自転車で通える神代高校の追加募集の試験を受けたところ合格したので、喜んで神高生になりました。1年生のときは体を鍛えるために柔道部に入りましたが、中学時代から星を見るのが好きだったことと、全く試験がないスライド映写機を用いた羽鳥先生の地学の授業がとても気に入ったので、2年生になる時に柔道部をやめて地学部に入りました。部員全員で多摩丘陵の農場の羊小屋に泊り込んで夜中に気象観測や流星観測をしたり、鍾乳洞に入り込んで穴の中の気温を測ったり地図を作ったり、いろいろ楽しい体験をしました。地学部の同窓生は40年後の今でも数年に一回は集まって旧交を温めています。しかし、多くの生徒を野外に連れて行く羽鳥先生のご苦労は大変だったと思います。自分が教員になっての実感から、先生には本当に感謝しています。また、もし入試で某都立高校に受かっていれば、神代高校で羽鳥先生や地学部の仲間に出会うことはなかったわけですから、入試に落ちてよかったと思っております。

◆大学時代

 こういう高校時代の体験から、大学は地学関係の学科に進もうと思いました。当時の国立大学は、試験日が早い一期校と遅い二期校の区別がありました。そして、一期校の理学部を受験したのですが、またしても不合格でした。しかし、運よく二期校の横浜国大の教育学部に合格したので、そこに行くことにしました。大学の地学教室は高校とはずいぶん違っていました。まず先輩からお酒の飲み方を教わったのはもちろんですが、日曜日ごとに大学の近くの海岸や山の中に地層を見るために連れて行かれ、泊り込みで何日も先輩の野外調査の手伝いをして、地質学の研究方法を実地に学びました。天文学や気象学の研究はあきらめましたが、実は大学に進んでからも、神代の地学部の仲間と鍾乳洞の調査をしたり、山歩きの仲間と丹沢や奥多摩を歩いたりしていました。地学部の先輩が「倉沢鍾乳洞学術調査団」を組織したので、その機関紙に鍾乳洞についての論文のようなものを書いたこともありました。これらは結果的にみると、よい地質学の練習になったと思います。 野外で見た岩石の中では、特に三浦半島や房総半島に露出する「蛇紋岩」に興味を持ちました。この岩石は地球深部の「マントル」から来た岩石だと考えられていたのですが、それが貝の化石を含むような浅い海の底でできた砂岩や泥岩の中に含まれていることが不思議でなりませんでした。そして3年生になる時に、自分の卒業論文の課題を何にしようか考え、指導教員の見上敬三先生とも相談して、蛇紋岩が広く露出している福井県西部の大飯・高浜地域の地質調査をすることに決めました。そこではちょうど山を切り開いて原子力発電所の建設工事の最中だったので、岩石の研究には好都合でした。3年生の春・夏、4年生の春・夏、計120日間、その地域を歩いて地質調査と岩石標本採集を行い、大学で岩石薄片を作って顕微鏡で観察し、それらの結果をまとめて卒業論文を出すことができました。大学の場合も、一期校の試験に落ちたことで、いい指導教員や仲間たちと出会うことができ、自分なりに満足の行く研究ができたので、やはり「落ちてよかった」と思っております。

◆大学院時代

 大学卒業の時点では、大学の研究者になろうという気持ちはなく、高校の地学教員になるつもりでした。教員採用試験を受けたところ、運よく合格したのですが、採用がなかったので、1年間神奈川県の高校の非常勤講師をしました。この「就職浪人」の期間中に、卒業論文の研究をきちんとした形で公表したいという思いが募りました。年をとってから後悔するのはいやだと思ったわけです。その頃の横浜国大には大学院がなかったので、福井県の調査地域に近い金沢大学の大学院を受験しました。幸い合格したので、バイクで福井県やその隣の京都府の調査地に通いながら2年間研究を続け、多数の化学分析を行いました(指導教員は坂野昇平先生)。そして、この地域の岩石が全体として「オフィオライト」を構成していることを明らかにし、これを日本語の論文にまとめて学会誌に発表しました。

 オフィオライトというのは、大昔の大洋の底をつくっていた岩盤が、造山運動で隆起してそのまま陸上に露出しているもので、マントルかんらん岩(またはそれが変質した蛇紋岩)、地殻下部のはんれい岩、そして地殻上部の玄武岩という3つの岩石の層が下から上に重なった、厚さ10 km、延長100 km以上に達する層状の大岩体です。大きなものですから、「群盲象をなでる」式にその上を歩き回って調べる必要があり、一朝一夕にできる仕事ではありません。結局、この論文が日本で初めてのオフィオライトの報告となり、翌年に出た日本の地質の教科書に引用されました。すると欲が出てくるもので、今度は世界の研究者に対して英語で発表したいと思うようになりました。金沢大学には博士課程がなかったので、東京大学の博士課程に進みました(指導教員は久城育夫先生と中村保夫先生)。この時期はアルバイトとして神代高校の地学の非常勤講師も勤めました。しかし、英語の論文は思うように書けず、博士論文だけは一応書きましたが満足が行かず、研究者になる道はあきらめて、今度こそ本物の都立高校の教諭になりました。

◆フランス留学時代

 しばらくは都内の定時制高校で生徒たちと楽しく学校生活を送っていたのですが、世の中は不思議なもので、いきなりフランスのパリ大学の先生から、「君を○○フランの給料で雇うからこちらの大学の助手になりなさい」という英語の電報が自宅に来ました。この先生が以前来日したときに、私の研究地を案内した縁で、顔見知りだったのです。私は、大学ではドイツ語を少し勉強しましたが、フランス語は全くやったことがなく、結婚直後だったこともあって非常に悩みましたが、結局行くことに決めました。都立高校の教諭を退職し、パリ市内に小さなアパートを借りて、歩いて大学に通う毎日が始まりました。語学学校にも通って言葉を覚えました。そしてアルプス山脈のオフィオライトを研究しました。毎年夏になると、パリから一人で車を運転して丸1日かけてアルプスに行き、1ヶ月程度山を歩きました。最初に行った時、山の中の小さな宿の庭で、心細い思いでぼんやりしていると、その宿の犬が棒をくわえて私の前に来て、「こうやって棒を投げろ」と言うように首を振ります。それで、私が棒を投げると、その犬が走って行ってジャンプして棒をくわえて帰ってくる、という遊びを1時間くらいやりました。こうして犬と遊んでいると、だんだん楽しくなってきて、異国の山の中でも一人でやっていける、という自信がついたように思います。私は猫好き人間ですが、あの犬には今でも感謝しています。

 3年間のフランス生活の間に、妻が産休をとって1年間パリに来て、外国での出産と子育てを経験しました。そして念願の英語論文をいくつか国際学術誌に発表するという夢も叶ったので、就職のあてはありませんでしたが、帰国することにしました。物理の久保田芳夫先生のお世話になってまた神代高校の非常勤講師をさせていただき、手当たり次第に大学教員の公募に応募したり、教員採用試験を受けたりしているうちに、幸運にも金沢大学の理学部に助手として採用され、日本の大学教員としての生活がスタートしました。

◆ロシアとの共同研究

 大学教員になってからも、相変わらずオフィオライトの地質学的・岩石学的研究を続けました。その中で、1989年から中国との共同研究に参加したり、1990年からロシア(当時はソ連)との共同研究を始めたりして、これらが現在の東北アジア研究センターでの仕事につながっています。ソ連崩壊後の混乱期を含め、10回以上ロシアに通って研究を続けることができたのは、厳しいシベリアの自然の中、テント暮らしの共同調査で築き上げたロシア人研究者との個人的な信頼関係のおかげです(写真1)。また、この間に、ひとつの国が苦難を経験し、そこから立ち直って行く過程をこの目で見ることがでたのは、得がたい経験だったと思います。今後はモンゴルのオフィオライトも研究したいと思っています。


写真1。
ロシア極東コリヤーク山地の地質調査キャンプに参加中の筆者(1990年)。
ツンドラ地帯のため湿地が多いのでロシア製の長靴が便利。夏でも気温が氷点下になることがある。

◆宇宙につながる研究

 一方、この間に、子供の頃から興味を持っていた宇宙の研究にも首を突っ込むことができました。その一つは、1995年、阪神大震災の直後に、大学の近くの根上(ねあがり)に隕石が落ち、それが大学に持ち込まれて、この隕石を研究したことです。隕石は地球の原材料物質だった可能性があり、天文学だけでなく、地質学や岩石学でも重要な研究対象です。また、この隕石は世界で3番目の「自動車の上に落ちた隕石」として世界で有名になりました。隕石の落下経路を調べるために、深夜に火の玉を見たというホテルの従業員や居酒屋のおばさんに、その場に立って説明してもらいながら、目視の方向を測定したのは楽しい思い出です。もう一つは、福井県の山の中で発見した古生代の特殊な火山岩についての論文を、学生と共同で5年前に発表したのですが、この論文を引用して、この岩石が火星の岩石に非常によく似ているということを3年前にアメリカの研究者が書きました(私たちはそこまで考えが及びませんでした)。それ以後火星の岩石についても興味を持って調べています。最近の火星の研究は、スピリットやオポチュニティーなどのアメリカの探査ロボットが調査を続けていて、天文学というよりは地質学の世界になってきています。皆さんも、きれいな堆積岩の地層の縞模様が見える火星のクレーターの写真を見たことがあるでしょう。

◆原子炉を利用した研究

 現在の岩石の化学分析は、X線、電子線、イオンビームなどを使った機器分析が主体ですが、その中に中性子放射化分析法という面白い方法があります。これは、岩石の粉末をカプセルに入れ、原子炉の炉心に送り込み、遅い中性子を照射して「放射化」し、それを取り出して、放射化された元素が安定な元素に壊変する時に発生するガンマ線を測定する方法です。この方法で、岩石中の微量元素の量をかなり正確に決定できます。作業中に多少被爆するのが難点ですが、分析試料の準備が簡単なので、私は京都大学の原子炉実験所に20年ほど通い続けました。このおかげで、原子炉の仕組みやそこでの放射線作業を実地に勉強できました。この経験は図らずも今回の原子力発電所事故対応に役立っています。

◆海洋底の研究

 オフィオライトは海の底でできた岩石ですから、現在の海洋底と比較研究することが重要です。私はアメリカの深海掘削船でインド洋の深海底を掘る航海に乗船し、得られた岩石を研究しました(写真2)。また、日本の海洋調査船による伊豆・小笠原・マリアナ海域のドレッジ調査(大きなバケツを海底に下ろして岩石を採集する)にも度々参加しました。そんな縁で、最近は統合国際深海掘削計画(IODP)の科学計画立案・評価パネル委員をやっており、その議長も務めました。この会議で、日本(「ちきゅう」号)、米国、欧州が1隻ずつ提供する掘削船を運用して世界の海底を調査する計画を決めるわけです。


写真2。
米国の深海掘削調査船ジョイデス・レゾリューション(JR)号。
1988年の第123航海(インド洋)の出発前に筆者がシンガポールで撮影。この船は現在も現役で活躍中。

◆論文は研究者のメシのタネ?

 大学の教員は教育と研究の両方が仕事です。その意味では、羽鳥先生は神代高校に勤めながら、立派に大学教員の仕事をされていたと言えます。研究は論文の形で発表して、はじめて成果として認められます。国際的な学術雑誌に論文を発表すると、その後世界中で発表される他の研究者の論文に自分の論文が引用されているかどうか、インターネット上のデータベースでいつでも検索することができます。論文を何篇発表したか、その論文が他人の論文に何回引用されたかによって研究者の評価を決めるのが世界的な傾向です。しかし、このデータベースをそのような「人事評価」の目的に使うのは実は邪道で、本来は科学者相互の間で議論を深め、新しい問題点を発見し、さらに研究を進めるためのコミュニケーションの道具として使うのが本道です。実際、ときどき自分の論文を検索してみると、上に述べた火星の例のように、思わぬ分野の人が自分の論文を引用しながら面白い議論をしていて、それがもとで新しい研究課題がみつかったり、その人との共同研究に発展したりすることもあります。科学研究というのは孤独な仕事のようですが、実は論文発表や学会発表という形のコミュニケーションで成り立っています。現在だけでなく将来(自分の死後)も世界中の関連研究者が自分の論文を読んでくれて、それぞれの科学的な問題の解決に役立ててくれるとすれば、とても愉快でやり甲斐のある仕事です。ただし、厳しい査読を通過して論文出版にこぎつけるまでは、出口の見えない模索の日々を耐え抜かなくてはなりません。論文はメシのタネではなく、科学者の人格そのものです。私は日本の英文学術誌の編集委員長を4年間務めましたが、二重投稿などの不正には厳しく対処しました。

◆大学は奇人・変人の集まり?

 私が学生として大学に入って感じたのは、極端に個性の強い先生が多く、人間の品評会みたいだということでした。教員として改めて大学に入り直してみて、この感じは一層強まりました(自分もその展示品の一つかもしれませんが)。学会というのも、そのような人たちが作る社会ですから、世の中の常識では考えられないようなことがいろいろ発生します。今の私の年齢になると、学会の役員とか、国際会議の議長とか、年相応の仕事が回ってきますが、こういう種類の構成員の集団をまとめるのは至難の業です。結局、自分が「常識」だと信じる方針に従って対処するしかありませんが、神代高校時代の学級活動やクラブ活動の経験が自分の「常識」の基礎を作っているのだと常々実感しています。

◆東日本大震災

 さて、羽鳥先生もそうでしたが、私たち地学の研究者は、自分の足で歩いて、直接自分の目で見て判断するということを重視します。私は、今回の東日本大震災で被災し、東北大学の私たちの研究センターは一部取り壊し工事中で、まだ立ち入り禁止です。研究者として何かしなければならないと思い、地震の直後から近所の墓地を回って地震の揺れによる墓石の転倒率を調べて歩き、地元の仙台や福島県内で原子力発電所の事故に関連した放射線量の分布を測定しました。地震の直後は自宅に水も電気もガスも来ない状態で、ガソリンも手に入らず、交通機関も動いていなかったので、文字通り徒歩での調査でした。私は今後も「地に足のついた」科学研究をやって行きたいと考えています。

◆在校生・卒業生へのメッセージ

 在校生や若い卒業生の皆さんへの私のメッセージを要約すると、あまり自分の将来を確定的に考える必要はなく、柔軟な自然体で、その時々で最良と思える選択をしていけばよい、ということに尽きます。また、選択に当たっては、世間の評判や他人に対する見栄、面子などにとらわれず、何十年か後になって後悔しないように、自分自身の心とよく相談することが大切です。そして、どちらへ進むか迷った場合は、より困難な道を選んだ方よいと思いますが、やってみてあまり辛いようだったら、無理をせずに一歩退く決断、そして失敗してもあまり苦にせず前向きに楽しく生きる気分転換が大事です。そうは言っても、仕事がうまくいかない時期は私も十二指腸潰瘍になったりノイローゼになったりしました。そういう中で、体や心を大きく壊すことなく、何とか乗り越えることができたのは、家族、先生、友人、研究室の学生、そしてその他多くの身の回りの人たちの支えがあったからだと思っております。

この文章を最後まで読んで下さってありがとうございました。ここに書いた内容をもっと詳しく知りたいと思ったら、私のホームページをご覧下さい。皆さんの今後のご健闘をお祈りします。

石渡 明(いしわたり あきら)さん 高23回 プロフィール

1953年生まれ。
横浜国立大学卒業、金沢大学大学院修了、東京大学大学院修了 理学博士。
1981年都立明正高校教諭。
1982年パリ第六大学助手。
1986年金沢大学理学部助手。同講師、助教授を経て2003年教授。
2008年から東北大学東北アジア研究センター教授。
2009年日本地質学会賞受賞。
石渡さん ホームページ

2012年2月20日投稿

2012年2月24日最終更新