大澤 佳子さんからの寄稿

大澤(旧姓 廣岡)佳子さん

今日は焼けるかと

 未明、空襲警報のサイレンに外へ出てみると焼夷弾が雨あられと降ってきた。父と並んで空を見上げながら、お互いに口には出さなかったが、「今日は我が家が焼ける番だ」と心のうちで思った。既に三月十日の東京大空襲で、下町に住んでいた叔母達が焼け出されていてその時の火の海の中を逃げまどう模様など聞かされていたのだった。とにかく焼夷弾が落ちてきたら消火しなければならないから防空壕になどに入ってはいられない。

 暗い夜空に無数の焼夷弾の赤い口火が揺らぎ、シュルシュル、シュルシュルと不気味な音を立てる毎に隣に立っている父の手が私の二の腕をきゅっと握りしめた。「死んでもこの子は離さないぞ」と言っているようだった。その力強い手の感触は今もはっきり覚えている。こうして二人は無言のまま空を見上げて立ちつくしていた。

 どのくらいに時間が過ぎたのだろうか。とても長く感じられたが、案外短かったのかもしれない。やがて焼夷弾は上空を東方に流れて行って我が家は焼失を免れた。それらの焼夷弾は成城学園に落ちたのだった。

野猿峠

 戦災記録にある八王子大空襲の翌三日が私達の鍛錬行軍だった。実際は遠足なのだが、戦時下では遠足にもこのような厳めしい名前をつけて教練の一環に位置づけられていた。 目的地は百草園と野猿峠、後者の方がやや健脚向きだった。生徒は自分の体力に合わせてどちらかを選ぶようになっていて、私は野猿峠に行くことにした。事前に学校から空襲などで帰れなくなった場合に備えて、お弁当のほかに生米、塩、鰹節、炒り豆、するめなどの非常食と救急用医薬品ーと言っても当時のこと、マーキュロと絆創膏くらいだがーを携行するよう指示された。

 今考えると、帰れなくなるかも知れない遠足を決行する学校も学校なら、反対もせず子供達を出す親も親だと思う。行く先が山の中だから、との安心感もあったろうが、その一方で、当時はもう日本の敗色濃く、本土決戦も間近だと皆考えていたから、早晩一億玉砕することになり、所詮生き延びられないのだという諦念もあった。更に是は教練であるから反対などしようものならたちまち非国民扱いされてしまう。当時非国民の烙印を押されることが何よりも恐ろしかったのだ。学校や通学路が危ないと言って警備を強化している昨今の世相と何と違うことか。そのように命が軽んじられている時代だった。

 この稿を書くにあたり、もう一度そのコースをたどってみたが、団地などで寸断されてしまっていて、もはや昔の面影はなかった。しかし、ところどころで八王子の市街が見えた。あの焼け野原には立派な高層ビルが立ち並んでいて、改めて六十年の歳月を思った。

創立50周年記念誌によると6月11日午前11時~午後0時半P51を主力とする数十機本校上空を通過。2,3機は急降下機銃掃射を行う。被害なし。との記述がある。この日のことと思われる機銃掃射に遭遇した証言がいくつかあるので紹介する。死傷者が出なかったのは何よりも幸いだった。

トマトの味

 サラリーマン家庭であった我が家では配給の食糧では足りないので、庭の芝生をはがして開墾し畑にした。じゃがいも、カボチャ、薩摩芋、とうもろこし、そして野菜類、持ちつけない鍬で手のひらに豆を作りながらも精を出した。更に三十坪ほどの畑を借り、それでも足りなくて家の前の公道を、家に沿って巾一メートル弱掘り起こし、畑にしてしまった。隣近所軒並みそうしていた。今だったら不法占拠でとがめられるところだが、食糧難時代のこと、当局も黙認していた。

   こうして収穫したものはカボチャや芋の葉や茎まで残さず食べたものだ。炎天下でかじったもぎたてのトマト、なま温かかったが何とおいしかったことか。飽食の時代、あんなおいしいものにであったことがない。

遺骨の帰還

 終戦の翌年、一九四六年八月三日、叔父の戦死公報が入った。前年の七月三日、北支で戦死したとのみで詳しい状況は何もわからなかった。

 ごく近親者で葬儀を行った。遺骨と称する白木の箱は軽かった。「骨なんか入ってないよ」と誰かが言うと別の人が開けようとしたが、皆に制止されてやめた。添えられてきた遺品は、遺髪と爪、そして私たちが戦地に送った手紙や写真が少しばかりだった。両親の写真だけはなかった。多分、最後まで肌身離さず持っていたのだろう。

 十二歳年上のこの叔父は、私が小学校に入る頃すでに働いていて、我が家に遊びに来るのは年に数回だったが、一人っ子の私の良い遊び相手になってくれて、私はこの叔父を大変慕っていた。上の叔父が体が弱く、徴兵を免れたので、彼に赤紙が来た時は「二人も男がいて一人も兵隊に行かなくちゃ肩身が狭いよね」とさも誇らしげに言い残して北支へと旅だって行った。この叔父もまた当時の軍国主義教育が骨の髄まで染みこんでいたのだ。

 それにしてもこれは果たして本心だったろうか、建前だったのだろうか。先頃自衛隊のイラク派遣の際、隊長さんの挨拶を聞いていて同じことを思ったものだ。また、本音の言えない時代がくる! ふと、そんな不安がよぎった。

 戦地からの葉書が何通か残って居るが、軍事郵便は検閲があるので当たり障りのないことしか書けず、戦地の状況や彼の思いなどはわからない。ただ、お花見をしたか、しきりに桜のことが書いてあるので、殺伐とした戦地で故郷の桜を思っていたのだろうか?

 戦争が終わってまず思ったのはこの大好きな叔父が帰ってくるということだった。あちこちで復員軍人のニュースが聞かれるようになり、遠からず叔父も、と心待ちにしている矢先のことだった。あと一ヶ月半生き延びていてくれたら、としきりに悔やまれた。二十四年の生涯だった。

 幼くして母をなくし、中学を出ると奉公に行き、二十歳で応召し、四年後に戦死、私の母は由喜ちゃん(叔父の名)の一生は何だったのだろうと言って泣いた。でも、この叔父などまだいい方だろう。もっともっと悲惨な人が沢山いるのだ。日本だけでなく、世界中に、そして今もなお増え続けているのだ。この地球上から戦争が無くならない限り・・・

『激動の時代に生きて』より