原 伸一郎さんからの寄稿

鞭の音

原 伸一郎 さん(高校4回生)

満州国・大連へ

 川崎市立川中島国民学校五年を終了して間もない昭和十九年三月初旬、一家を挙げて大連へ疎開するため川崎大師の家を後にした。大連行きの話は新年早々から耳にしており、まだ見ぬ異郷の暮らしにうきうきしながら、友達にうるさがられるほどしゃべり続けていた。しかし、東京駅で文学座の芥川夫妻らの見送りを受け、「行っちゃうか!」と頭に手を置かれたときには、なぜか鼻の奥がきな臭く「うん」と言う声も出ず、ただうなずき返していただけだった。  夕暮れの東京駅を、大阪行きの急行列車は滑るように動き出し、やがてプラットホームを離れた。  翌朝、大阪着。ひとまず環状線の桃谷にある父の従兄弟の家に落ち着いた。一行は父、継母(以下母と記す)、二人の妹、足の不自由な祖母、そして私という六人の大所帯であったが、幸い叔父が二人いたのでそれぞれの家に分宿することができた。

 次の日、祖母の生家である大和五条の森本家を訪ねた。大きな門構え、広大な屋敷であった。叔母に、祖母の生まれた離れを案内され、その後お兄さんに吉野川へ連れて行ってもらった。五右衛門風呂でやけどをしながらそこに三日ほど滞在した。二日目、明日は神戸から船出というので、私たちは奈良へ向かった。父は、祖母にとって故郷の見納めになるかもしれないと考えたのであろう、家族六人、人力車を連ねて東大寺や法隆寺など奈良の名所を経巡るという豪華版であった。  神戸の三宮港を船出したのは、三月二十日頃であった。大阪商船の誇る大連航路の華型客船・黒竜丸の二等家族部屋に落ち着いた。夕方出航、翌朝門司に寄港、ここで大量の石炭を積み込み昼過ぎに出航し、一路大連を目指した。このころ、黄海にはアメリカの潜水艦が頻繁に出没しており、何隻かの釜山航路、青島航路などの汽船が被害に遭っている。

 門司を出航した日の夜半、突然鋭い警報音が船内に鳴り響き「全員救命胴衣をつけて上甲板に集合せよ」との命令が発せられた。早速、敵潜水艦のお出ましである。当時の商船には潜水艦攻撃に応ずるため爆雷投下器が備えてあり、それを扱う兵隊も配備されていた。 ひとしきり、爆雷を投下する鈍い音が響いていたが、どうやら撃退できたというので一時間余り後に部屋へ戻ることができた。通常、神戸から大連までは二昼夜といわれていたのだが、潜水艦騒ぎのおかげで朝鮮半島の島影をゆっくりと縫いながら一週間をかけての航海になった。大連に入港する日、大食堂では五目寿司が用意され、船客全員で航海の無事を祝った。

大 連

 大連埠頭に接岸した黒竜丸のデッキから、私はもの珍らしそうにきょろきょろと港を眺めまわしていた。貨物船から積み荷を運び出す半裸の満人達が大きな麻袋(またい)を背負って忙しげに行き来している。近くにいたおじさんが「あいつらは苦力(ク-リー)といって、ほとんどが山東省からの出稼ぎなんだ」と教えてくれた。

 その日は、大連駅前の小さなホテルに泊まり、翌日、馬車(マーチョ)二台を連ね、大陸に来たという興奮を隠せぬまま、目的地へと向かった。父とは別のマーチョに乗ったため落ち着き先の地名を確かめることも出来ず、見知らぬ道をただ西へ西へと走りつづけた。時々御者の発する「チョ!チョ!」というかけ声、ぱーんと鳴る鞭の音、パカパカという騾馬の蹄の音を聞きながら市街地を抜けてアカシア並木の続く田舎道をただひた走る。右手の満人の家には赤地に金文字の春聯が掲げてあり、門の脇にはレンギョウが今を盛りと咲きほこっていた。

 しばらく進むと左手に「大連工業学校」の門柱が見え、そこを過ぎて上り坂にかかると、両側のあまり高くない崖に視界を閉ざされた。坂を登り切ると右側に瀟洒な住宅街があった。西山屯の日本人住宅地だという。さらに直進する。しばらくすると左手に煉瓦造りのたくさんの住宅が並んでいる。大連市馬欄屯十七番地二の四の八。私たちの落ち着き先である。ここも日本人住宅地であった。学校のある大正広場発のバスはここが終点であった。

 四月、私は「大正国民学校」で六年生を迎えた。大正国民学校は大正広場の角にある、美しい煉瓦建ての校舎であった。沙河口方面から海水浴場で知られる星が浦・黒石礁行きの市電が走っている。  「東京から来たん?家のお隣ね」と声をかけてきたのは、同じ六年生の河原鈴子だった。

聞いてみると馬欄屯の住宅地から通っている同学年の男子は少ないという。翌日から「ウチと一緒に学校へ行こう」と言う鈴子ちゃんと一緒の通学が始まった。

中国語の授業

 火曜日の四時間目。それは北京官話の授業であった。大連では国民学校四年生から毎週一時間、中国語の授業が組まれているという。この日の授業で勉強したのは「飛機 飛機 有是高 有是低(フェイジー フェイジー ヨウシーカオ ヨウシーディ~)」 「飛行機 飛行機 ある時は高く ある時は低く・・・」と言う意味だという。外国語を学ぶという初めての体験に強いショックを受けたせいか、今でもこのフレーズだけは鮮明な記憶として残っている。しかし、その後の授業での記憶は不思議にも持ち合わせていない。  クラスメートの中に、王善連、孫利明という二人の満州人と白系ロシア人の増田昭雄君がいた。増田君の妹は、お人形のように可愛くみんなのアイドルになっていた。

放課後、クラスメートになった王善連が「一緒に帰ろう」と声をかけてきた。聞くと私の住んでいる住宅地と道路を挟んだ反対側に家があるという。王君は馬欄屯までゆっくりと歩きながら次のような話をしてくれた。  日本の国民学校に入るには、日本語が堪能なこと、日本人と同じように忠君愛国思想を持っていること。こうした条件を満たすことの出来ない子供達は「公学校」と称する満人だけの学校で勉強する事になっているという。また、北京官話の時間には王君と孫君の二人は、後ろの席で「書道」をしているのだそうだ。 「明日、大正国民学校の隣に公学校があるから確かめてごらんよ」  王君は別れ際にそう言って笑った。

ヴァイオリンの響き

 ある日、音楽の清水先生が見慣れない楽器を持って音楽室に入ってきた。  「これは何という楽器か知っている人・・・」  「・・・・・・・・」  「そうか。これはヴァイオリンと言うんだ。どんな音がするか聞かせよう」。  先生がヴァイオリンで奏でたのは「空の神兵」だった。あの、勇ましい軍歌が、哀愁に満ちた曲に変貌していた。クラス全員が、悲しげに響くヴァイオリンの音色に、ただうっとりと耳を傾けていた。今にして思うと、清水先生は音楽大学でヴァイオリンを専攻したものの、それを演奏する機会など皆無の時代だったので、その音色の美しさ、音楽のすばらしさを皆に伝えたかったのかもしれない。体育の時間、教師の「突けエ!」の号令で藁人形に躍りかかり、それを敵に見立てて竹槍で力一杯突きかかる子供達。そのような子供達の姿を目にするのがつらかったのだと思う。  清水先生は、この年の秋、軍服に身を固めて戦地へ赴いた。

 その頃、六年生全員で水源地へ豆茶を採りに行った。豆茶は栄養豊富なので軍馬の飼料にするのだという。水源地は、私の住んでいる馬欄屯のさらに奥の方に当たる。学校から水源地まで約二里半(十キロ)程の「全員行軍」である。水源地に水は無かった。左手の山は緑に覆われ、その麓からは広大な野原が広がっている。緑の下には石がごろごろしていたので、ここは、馬欄河の河原かも知れない。私たちはそこでまず弁当を食べ、ひと休みしてから豆茶を摘んだ。それぞれが持ってきた大きな木綿袋に豆茶を押し込み、夕方学校へ戻って体育館に積み上げた。その日の中に関東軍のトラックがやってきて、荷台にいっぱいの豆茶を運んで行った。

旅順関東神宮

 昭和十九年九月頃であったと思う。六年生と言うこともあり、修学旅行と称する小旅行が実施された。沙河口駅から旅順行きの列車に乗ると約二時間ちょっとで到着する。私たちの旅行の主目的は、勤労奉仕という名目で関東神宮の清掃作業をすることだった。    関東神宮は昭和十三年、天照大神と明治天皇を祭神として創建され、満州の総鎮守になると言うことであった。そのため、それまで関東州の鎮守として中心的な存在であった大連神社は、昭和十九年十月一日に行われる遷座式をもってその首座を関東神宮に明け渡すことになるのだという。

 勤労奉仕を終えた後、戦勝にちなんでであろう、日露戦争の戦跡である爾霊山(にれいさん=二〇三高地)東鶏冠山を巡った。二〇三高地から旅順工大、旅順口の見える丘の斜面まで道を降って弁当を食べていると、何か訳の分からない動物が歩いている。皆で捕まえてみると大きなハリネズミであった。これも何かの縁かも知れないと学校へ持って帰り、教室の二重窓の間に入れて飼うことにした。もっとも、ハリネズミは二週間ほどで昇天してしまったが。小休止の後、列車で水師営に行き、乃木将軍とステッセルが会見した農家を見学し、夕方、沙河口駅に到着解散した。

初めての冬・スケート体験

 十一月下旬、大連はもう冬である。この年は特に寒かったらしい。家には石炭が一トン、二トンと配給された。石炭の中には様々な化石が混じっており、私はそれを探し出すというひそかな楽しみを見つけた。

 急に冷え込んだある日のこと、私は掃除当番で正面玄関のドアのノブを拭きに行った。暖かい湯で雑巾を絞り、ノブをくるむように拭こうと思ったら手が動かない。雑巾と一体になった私の手が、ノブに張り付いてしまったのだ。いや、凍り付いてしまったのだ。幸いそれを目にした鈴子ちゃんが、先生と一緒に熱い湯の入ったバケツを持って駆けつけてくれた。私の手に湯をかけながら、ソーッと雑巾と手とノブを離してくれた。「冬は、濡れたもので金具をさわったらだめよ」とにらまれた。   その何日か後、大雪になった。翌日、地面は見事に凍り付いていた。革靴は氷の上をツルツル滑るだけで、なかなか前へ進めない。それでもやっとの思いでバス停にたどり着き、何とか学校に行くことができた。校庭には、前の晩から水が撒かれ、立派なスケートリンクが出来上がっており、級友達は、その上を気持ちよさそうに滑っている。  「いいなあ、あんなに滑れたら気持ちいいだろうな」。私は、みんなの楽しそうな姿をただ眺めながらその日を過ごした。

 その夜、父が大きな包みを小脇に抱えて帰ってきた。「ほら、開けてごらん」。そこには思いもしなかったスケート靴が入っていた。  翌日、私は早速スケート靴を履いて、意気揚々と学校へ向かった。ところがである。凍り付いた道路に出て滑ろうとしても後ずさり、尻餅をつくばかり。何回やっても同じことの繰り返しだ。スケート靴は学校へ持って行くことにして、いつものバスで登校した。

 早くスケートがしたい。その思いが募り、授業はうわの空であった。待ちに待った昼休み、弁当を食べ終わるやいなや私は校庭に飛び出し、スケート靴を履いたというより履こうとしていた。けれど何かがおかしい。困っていると後ろから「それ、両方とも左足用の靴じゃない?」という声がした。そうか、それで「変」だったのかと友達の顔を見上げ、思わず笑ってしまった。集まっていた皆も大声を出して大笑いになった。

 すると、どこかでその様子を見ていたのか、担任の大石先生が「原君、スケートは初めてだろう?この靴で滑ってごらん」とフィギュアの靴を貸してくれた。よく見ると左右それぞれの靴には、五センチほどの隙間を空けて二重になっている歯が取り付けられていた。恐る恐る氷の上に立つ。滑って見る。すいすいと進む。足首もぐらぐらしない。滑っている。私は、天にも昇る心地とはこのようなものかも知れないと思った。その夜、ことの顛末を父に話した。明日、靴を取り替えてきてくれるという。しかし、靴を買った店の店員はいなくなっていたそうだ。

「ロッパッパー」と木炭自動車

 「ロッパッパー」とは「688部隊」の愛称である。部隊の正式名称は知らない。たぶん、「関東軍満州○○688部隊」とでも言うのであろう。  毎朝、馬欄屯の住宅地にロッパッパーの軍用トラックがやってくる。技術軍属を688部隊まで輸送するためである。道が滑るというので国民学校生も便乗する事が出来る。  そのお礼というわけではないが、私たちは毎朝、木炭トラックの薪を燃やすために「ふいご」を勢いよく回す役割を与えられた。薪を釜に放り込むと、最初に真っ白な煙がもくもくと吹き出す。あまりの煙たさに激しく咳き込む。火勢が強くなると煙は紫色に変わる。出発オーライである。

 私たちは大人に押し上げられて、トラックの荷台に上る。風よけの幌も何もついていないトラックの荷台は、恐ろしく寒い。防寒服に防寒帽に身を包んでも、マスクの縁やまつげには息が凍りつき、真っ白になる。私たちは大正広場で降ろして貰い学校へ駆け込むのが冬の登校風景であった。

 しかし「ロッパッパー」のトラックは下校の面倒までは見てくれない。帰りは大正広場から馬欄屯行きのバスを利用する。これも木炭車だ。バスは大連工業学校前までは平坦な道なので快適に走る。だが、ここからはかなりの斜度を持った登り坂にかかる。運転手はバスのアクセルをいっぱいに踏み込み坂を上る。

 しかし、その勢いはせいぜい二十メートルくらいで、バスは動かなくなる。いわゆるエンストである。車掌が「お客さんは降りてくださーい」とアナウンスする。バスはエンジンを止めたままバックし、急ブレーキをかける。うまくいけばそのショックでエンジンがかかる。そこでバスに乗り込むのだが、運が悪いと「お客さんはバスを降りて押してくださーい」ということになる。私たちは寒さも忘れて何回バスを押したことか。その穴埋めというわけではないと思うが、一週間に二回ほどはディーゼルエンジンの大型バスが運行される。旅大線で使用している車だそうだ。

  

大連中学校入学

 昭和二十年四月一日の朝、学校からの事前連絡により、私は集合場所である馬欄屯のバス停に向かった。新入生である私を含め約十名の生徒たちが集まっている。  「僕が班長の杉山です。大中の三年生だ。これから毎日ここに集合し、隊列を組んで登校します。下校時は自由に」。それぞれが自己紹介をしたあと、約三キロの道を行軍し学校へ向かった。

カーキ色の制服に戦闘帽、足にはゲートルを巻き、雑嚢を右肩から左脇にかけ、木銃を右肩に行軍する。杉山さんの歩幅は大きく、一年生の私は股も裂けよ懸命に歩く。  大正広場を星が浦方向へまっすぐに進むと、左手に大連中学校の正門がある。班長の杉山さんが号令をかける。「歩調とれえ、頭(カシラ)ア右い」私たちは靴音を響かせながら校門をくぐる。軍事教官の黒岩中尉殿が挙手の礼で迎えてくれた。「なおれえ」の号令で並足に戻る。

 黒岩中尉の、その時の端正な姿と笑顔はいまだに私の脳裏に焼き付いている。彼は五月になると南方戦線に転任、間もなく戦死の報が入った。二十三歳だったと思う。

軍鳩部員に

 中学では、お国のために役立つ部活動が求められた。滑空部、剣道部、柔道部、空手部など、鍛錬系の部活動が奨励されたが、その中での変わり種が「軍鳩部」であった。学校の屋上には大きな鳩舎があり、軍の通信手段の一つである「伝書鳩」が百羽ほど飼育されていた。その訓練と、ひな鳥の飼育そして鳩舎の清掃が主な活動内容である。

 伝書鳩は、見た目にはなかなか美しい。しかし、雛を抱いている母鳥は気が荒く、下手に手を出そうものなら鋭い嘴で襲ってくるのだ。また、親鳥は雛に餌を与えるとき、自分の胃袋から半分消化された「虫のおかゆ」を吐き出す。その臭いのあまりの強烈さに軍鳩部に入ったことを後悔した。  銃剣道は、本来体育の時間に組み入れられていたのだが、戦局の緊迫化と共に銃撃訓練を交えた白兵戦といった軍事教練に時間が取られた。模擬手榴弾の投擲、猿尾(エンピ?=携行用の小型スコップ)でのたこ穴掘り、わら人形への突撃、匍匐前進、折敷での銃撃の仕方など、それこそ真剣な戦争ゴッコであった。

 それでも勤労奉仕の合間に、欠けた歯のように授業は行われた。英語、国語、日本史、東洋史、漢文、時文(中国語の新聞を漢文読みにする)、代数、幾何、中国語、化学、生物、物象(ぶっしょう=物理のこと)などなど。しかし、正規の先生達は次から次へと召集を受け、その殆どが南方戦線に送られて行った。満州には精強を誇る関東軍がいるから南方へとの事であったが、時折入ってくる先生方の戦死の報には耐え難かった。こうして教壇は四年生で繰り上げ卒業をした代用教員に置き換えられていった。残された正規の教師は、漢文、時文、東洋史などを掛け持ちで教える年配の先生方である。

軍人勅諭の暗唱

 代用教員に「ヤント」と呼ばれる先生がいた。彼の姿を発見すると誰かが「ヤントーソー」と叫ぶ。中国語の「煙突掃」(イェントーソー(?)煙突掃除人)をもじったらしい。彼は山本という名字であったが、ほとんど担任のような存在であった。二十歳過ぎの若さだけに元気が良い。授業は「生物」と称していたが、中身は軍人勅諭の暗唱ばかりであった。 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬ・・・我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ」 と言う前文に続き    「一つ、軍人は忠節を尽すを本分とすへし」 に至る句読点のない長文を暗唱させられるのである。中学一年生にはなかなかの苦行であった。私達は、前列から次々と指名され、懸命に声を出す。もし、誰かがつかえたり絶句すると「全員、駆け足で校庭に集合っ!」というヤントの怒声でわらわらと校舎を飛び出す。

 「一列横隊、整列っ!番号っ。・・・良く聞けよ。覚えていなければならないことをド忘れしたり、つかえたりするのはおまえ達の精神がたるんでいるからだ。そんなことで、この戦争に勝てると思っているのか。これから、ちゃんと覚えられるように気合いを入れる。肩幅に足を開け。手を後ろに組め、歯を食いしばれえ・・・」  右端の生徒の頬がパチッと鳴る。後は一気呵成に左端の生徒に至るまでビンタを見舞われる。ここは学校ではなく兵舎なのか。

海水浴と大連空襲

 国民学校の時から、海水浴と言えば「星が浦」と決まっていた。だが、この夏は体練の時間を夏家河子(かがかし=遼東半島の著名な海水浴場の一つ)での水練に当てるという。私たちは、お定まりの沙河口駅から列車で夏家河子駅へ向かった。ここは星が浦と違って見渡す限り遠浅の海岸線が広がっている。クラゲに刺されながら、それでもさんざん泳いで昼食をとり、一休みしていると空襲警報のサイレンが鳴り渡った。皆の顔に一瞬不安がよぎる。しばらくして、どこかの人が「大連がやられている」と言う。

   余談だが、私は川崎でノースアメリカンB25数機による東京初空襲を体験している。高射砲が火を噴き、爆弾が炸裂する。私の家の窓は爆風で割れた。多摩川の河岸近くにある工業地帯に爆弾が落ちたというので、防空頭巾をかぶり、近所の悪友どもと駈けだした。すると池貝鉄工所前の産業道路に人だかりがしている。道路の真ん中に直径十メートルほどの大きな穴が開き、皆はそれを黙って見ている。しばらくの間穴を眺めていたが、また敵機が来るといけないというので、私たちはそれぞれの家に帰った。帰り道、キラッと光るものを見つけたので拾い上げた。それはぶ厚い鉄が裂け、裂け目がカミソリのように鋭く玉虫色に光っている爆弾の破片だった。

 私たちは大連がやられているということで、急ぎ引き返すことになった。不思議なことに、列車はダイヤ通りに運行している。沙河口駅で聞くと、戦闘機がやってきて天の川発電所がやられたらしいという。その日は、沙河口駅で解散となった。

 翌日、大正広場近くの天の川発電所を見ると、何枚かの天窓のガラスが割れていた。しかし、あまりにも平静な街の様子に「本当に機銃掃射があったのかな」と首を傾げざるを得なかった。  後日判明したところによると、B29一機が飛来し、大連ドックに爆弾を投下したとのことである。

学校をサボる方法

 中学では来る日も来る日も軍事教練や勤労奉仕、軍人勅諭の暗唱とビンタの雨。私たちはいささかうんざりしていた。学校への行進中、何とか「学校をサボる」方法は無いかと、誰言うと無く話題にするようになって行った。

 軍事教練で、教官は、私たちに次のような事を教えた。  「爆撃を受けた時の身の守り方は、鼓膜をやられないように両手の親指で耳の穴をふさぎ、目が飛び出さないように人差し指、中指、薬指で目を押さえ、小指で鼻を押さえ、口を大きく開けて地面に伏せる」。  「この爆音は?グラマンP51戦闘機だ。これは?双胴の戦闘機P38だ。Pは戦闘機,Bは爆撃機だぞ。よく覚えておけ。それじゃこれは?B19、これは?B29・・・」  レコードで敵機の爆音を聞かされ敵味方の飛行機を区別するための聴音訓練である。  「警戒警報のサイレンが鳴ったときは、そのまま帰宅せよ・・・・」。    「ん?これだ!!」。    「敵機を発見したら、直ちに通報せよ」。関東州庁または市役所である。 

 何日か経って、「誰」かが「関東州庁にB29の爆音を聞いたって電話してみよう」と言いだした。通学路の途中に、沙河口から天の川発電所への引き込み線がある。「火車」(ほーちょ=汽車)の表示板の左手前にあった電話ボックスから「誰」かが 関東州庁に「高々度を飛行中のB29の爆音を聴取」と電話をしてしまった。するとどうであろう、それから三分も経たないうちに警戒警報のサイレンが鳴り出したではないか。私たちは、一瞬ドキッとしたが反射的に帰宅への道をとっていた。しかし、何となく後味が悪く、道を引き返し始めたものの、そのまま帰ることがためらわれた。仕方なく、西山屯方向へ戻りながら、「苗圃」のバス停先にある杏畑に入り込み警報解除のサイレンを待った。  「非国民やっちゃったな」「胃袋が固まっちゃったよ」「憲兵に見つからないかな」「もう、こんな事はやめよう」・・   翌日、学校では何事もなかったかのように時間が流れて行った。  あの警戒警報は、「誰」かの電話のせいだったのだろうか、それとも本物の警報であったのだろうか。それは今もって謎の中である。 

大詔奉戴日

 毎月八日は、大東亜戦争開戦の昭和十六年十二月八日にちなんで「大詔奉戴日」とされた。この日には沙河口駅の手前高台にある沙河口神社に参拝する。私たちは勇ましいラッパの音に歩調をあわせ、班長の先導で「学徒出陣の歌」をはじめ、様々な軍歌を歌いながら四列縦隊で行進する。神社に着くと拝殿前に整列し、宮城遙拝、戦勝祈願、万歳三唱で締めくくる。帰りはまた四列縦隊を組み、軍歌を歌いながら行進して学校へ戻る。   八月十二日、午後二時、父に赤紙(召集令状)が来た。そういえば、八月に入ってから団地内の大人達が栗原農園へかり出され、銃剣道の訓練を受けていた。私は、いつも「疲れた」と愚痴をこぼしている父に戦争は似合わないと思った。  召集令状には、「臨時召集令状 大連市馬欄屯二号地四ノ八 第一補充陸軍歩兵 原千代海 右臨時招集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参着シ此ノ礼状ヲ以テ云々」と記してある。  この時の招集が、関東軍による在満男子二十五万人動員計画によるものであったたということが分かったのは、戦争が終わってからである。  父の居なくなった家をどうやって守ればいいかというのが、私の当面の課題であったが何を出来る訳でもなかった。父は私に「後を頼むぞ」としか言いようが無かったのであろう。

鞭の音

 夏休み、私たちは勤労奉仕のため、登校していた。八月十三日、ヤントに元気がない。いつも通り軍人勅諭の暗唱であったが、誰かがつっかえても、暗記を忘れてもただぼんやりしている。そのまま、十三日は過ぎた。

 八月十四日、ヤントの時間だ。いつもと同じように、軍人勅諭の暗唱が始まる。何人かが指名された後、ヤントは黒板に向かって「一億玉砕」「無条件降伏」と大書した。それからおもむろに私達を見渡し、貴様達はこのどちらを選ぶか。オマエ、つぎ、つぎと指名し続ける。私達は、また「ビンタはゴメンだ」とばかりに「一億玉砕でありますっ」と必死の面持ちで答える。ヤントはしばらく沈黙した後、悲痛な声を上げた。  「奉天は、いまや風前の灯火である。明日正午、重大放送があるから全員校庭に集合するように。いいな。」と言うと足早に教室を出て行った。  昭和二十年八月十五日正午、校庭には真夏の太陽がカッと降り注いでいる。全員に重大放送を聞かせるため朝礼台の上に白いテーブルカバーを掛けた机が置かれ、その上にラジオが乗せられていた。学校長が朝礼台の前に進み出る。    「きおつけーっ。学校長殿に敬礼、かしらーっ、なかーっ。なおれーっ」  また学校長の長い訓話かと思ったら「間もなく、重大放送が始まります。心して聴くように」とだけ言って「おわり」であった。  「きおつけーっ。学校長殿に敬礼、かしらーっ、なかーっ。なおれーっ」     正午の時報に続いて放送が始まった。内地からの短波放送ということで、ラジオの音は大きくなったり小さくなったりしながら内容が分からぬまま雑音だけが聞こえていた。

 放送終了後、学校長から「我が国は連合国のポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした」と告げられた。私たちは、どうしていいのかわからず、ただシーンとしていた。しばらくすると、「嘘だ、あれだけ勝っていると言いながら戦争に負けたなんて信じられない」という声があちらこちらで上がり、やがて全体にさざ波のように広がって行った。

 学校長はだめを押すように「日本は無条件降伏をした。ただ今の放送は畏くも天皇陛下のお言葉である。取り乱すことのないように下校しなさい」と改めて訓示した。 「嘘だ!嘘だ!日本は勝っているはずじゃないか」と叫びながら、皆大声を上げ、泣出す者もいた。 

 しかし、ひとしきりの興奮が収まると、そこには中学一年生の顔があった。今さっきの興奮を忘れでもしたかのように、誰かが「今日は他車(ターチョ=荷馬車)に乗って帰ろう」と言い出した。

 西山屯・馬欄屯組はたちまちそれが良いということになり、大正広場で他車に乗ろうとした。その瞬間、あたりの空気を切り裂くように「パーン!」という音が鳴り響いた。それは他車の馭者が我々に向かって打ち鳴らした鞭の音だった。

 みんなは音のした方をハッと見上げた。そこには今朝までニコニコしていた他車の馭者と先に乗りこんでいる満人達の刺すような視線があった。  私の敗戦は、馭者の打ち鳴らす鞭の音であった。

ソ連軍進駐と司令官布告

 八月十五日が過ぎ、敗戦の夏休みに入った。私は、悪童達に誘われ、夜陰に乗じて大連中学侵入を試みた。目的は「武器庫に収蔵されている新型機関銃をロ助に渡すな」であった。しかし、学校には入れず、すごすごと引き返すほかなかった。

 八月二十日午前五時突然、父が帰ってきた。吉林省・四平街に到着し、部隊に顔を出したと思ったら「戦争は終わった、急いで貨車に乗れ」と言われ、貨車に乗ったらそのまま大連ま走ってきたという。「同じ部隊に満鉄の機関手がいてね、七十両の貨車を連結して帰ってきたんだ。途中、何もなかったなあ」と、父は至って呑気そうであった。いや、きっとホッとしたのに違いない。

 八月二十二日、ソ連軍が大連に進駐してきた。真っ先にやってきたのは、頭を五分刈りにした囚人兵で、大連市中で暴虐の限りを尽くしたというが、馬欄屯は意外なほど静穏であった。もっとも、すぐに日本兵狩りが始まり、その後父にも調査の手が伸びたが幸いなことに、虚弱体質の父はシベリア送りを免れた。

ソ連軍が進駐して来た直後、次のような布告が出された。

(一)全市民は八月二十三日、四日両日中に所有武器を本官に提出すべし。引き渡し場所  は飛行場。   (二)市民は午後九時以降外出することは禁ず。 (三)劇場、映画館、レストラン、カフェー等の行楽場は八月二十三日より別命あるまで  閉鎖すべし。 (四)湯場、麺ぽう焼業、水道、発電所等、市民の日常生活に関する各営業は日常業務を   継続すべし。 (五)銀行は別命あるまで業務を停止すべし。                      ダルニー市警備司令官 ヤマノフ少将 (父の覚え書きより)

八月下旬、馬欄屯日本人住宅団地では、ソ連軍の進駐や中国人の暴動など不測の事態に備え、自警団が組織された。団地の中央に広場があり、国民服にゲートルを巻いた大人達が手に手に棍棒を持って集まるようになっていた。母はソ連兵の女性狩りを避けるため父の背広を自分用に仕立て直し、男装をしていた。

 ある日の午後、玄関のドアが重いもので激しく叩かれた。と、ドアを押し破って二人のソ連兵がマンドリンと呼ばれる自動小銃を構え、ヌーっと現れた。私は、とっさに座敷の二重窓を開け、母を外へ押し出した。玄関にとって返すと、祖母が大手を広げ、関西弁でソ連兵に食ってかかっている。

 さすがのソ連兵もこれには手出しが出来ず、しばらくしてすごすごと帰って行った。私は自警団の中に父の姿を見つけ、ことの顛末を報告した。大人達は色めき立ち、手分けをして母を捜しに走り去った。幸い、一時間ほどして母は震えながら帰ってきた。敗戦の波は、様々な形で私たちに襲いかかろうとしていた。

大連中学校の接収

 九月、大連中学はソ連軍に接収され、返却されたのはとても寒い季節であった。荒れ果てた校舎を何とか綺麗にしようと、全員での清掃作業が始まった。ある教室には小銃やピストルの弾丸がばらまかれたように散らばっている。また、ある教室には、大豆や南京豆から油を絞ったカス、といってもトラックのタイヤのような大きさで真ん中に巨大な穴が開いているものがゴロンゴロンと転がっていた。

 清掃を終え、最後に教室から出たゴミをいくつかの山に分けて校庭に集め消却した。ところが突然、あちこちからパーン、パーンという音が鳴り始めた。小銃弾やピストルの弾丸を一緒に焼却してしまった結果だった。その時、誰かが指を失うような大けがをしたと聞いた。  授業が再開されたのは、年が明けた昭和二十一年からである。四月、無事新入生を迎えることが出来た。校門付近で出会った新入生に、いきなり挙手の礼を受け、戸惑ってしまったことを覚えている。今まで、先輩達にシゴキを受けてきたので、「今度は俺たちの番」などと意気込む同級生もいた。この年の新入生が大連中学最後の生徒となった。

 学校の教室には、一つの机も椅子もなかった。中国人達が暖房の燃料にでもしてしまったのだろう。私たちは、荒れ果てた教室を片付け、授業が出来るように準備した。生徒達は、机も椅子もない教室の床に座り、首にかけた画板の上にノートを開いて学ぶという、奇妙な授業風景であった。何よりも困ったのは、尻が冷たく、頻繁にトイレ通いをしなければならない事であった。その後、荒れた教育環境では学習に支障が出るということからであろう、下藤小学校の教室を借り、机と椅子のある二部授業となった。

 様々な混乱の中にも平穏な時間があった。このころ、下藤小学校の講堂でレコード・コンサートが開かれたのである。今まで、軍歌の渦に埋もれていただけに、西洋音楽のなんと新鮮な音色であったことか。その時に聞いたブラームスのハンガリアン舞曲第五番は特に印象に残っており、未だに大好きな曲の一つになっている。

 二学期になってからであったろうか、校舎は芙蓉高等女学校との二部授業に変わった。「女学生に会える」という望みもは、廊下を大きな板で仕切られてしまい、ついにかなわなかったが、その後もう一度、下藤小学校に戻ったのかどうかの記憶はおぼろである。

 授業では、墨で塗り潰した歴史や国語などのほか、ロシア語が新しく必修科目になった。英語に加え、中国語やロシア語なんてやれるものかと試験をボイコットし、校長に大目玉をくらったことも忘れられない。今まで正しいと考えていた事が、敗戦によって否定され、価値観が百八十度転換してしまったことへの、苛立ちであったのかもしれない。  この年十二月、繰り上げで学年修了となり、大連中学校をはじめ全ての日系の学校は、満州における教育の歴史に幕を下ろした。

 この団地には、日本軍の技術者として働いていた人たちが大勢住んでおり、その技術者をソ連軍が活用したいという申し入れであった。父は、この申し入れについて自警団の仲間達に計った。様々な議論の末、父がその責任者に選ばれ、ソ連軍との直接折衝に当たることになった。名称も自警団から厚生会と改めた。

とはいえ、父は英語、フランス語は堪能であったが、ロシア語は初めてである。ソ連軍との折衝となると、直ちに実用的な会話力が求められる。困ったなと言いながら、父はどこからかロシア語辞典を手に入れてきて「これで何とかなるだろう」と言う。皆も「それじゃよろしく」ということになった。うまくいけば、かなりの人たちが職を持つことが出来るかも知れないという望みが人々を元気づけていた。

ソ連兵たち

 厚生会の初めての会合は我が家と決まった。私とすぐ下の妹は、もやしの根を取ったりジャガイモの皮をむいたりと、もてなしの準備に追われた。初めにやってきたのは、すぐ近所に住む厚生会の川中さんと伊地知さんだった。約五分後、ウオッカ、塩漬けの牛肉、砂糖、黒パンなどを手みやげにソ連軍の将校達がやってきた。ポトボルコーブニック(大佐)マカラチョーフ、従卒のカラチョーフ、部下のタナエフ中尉だという。

 父が厚生会の二人を「ガスパジーン・カワナカ」「ガスパジーン・イジチ」と紹介し、早速ウオッカでの乾杯となる。仕事の話は順調に進んだようで、やがて朗々たる歌声が聞こえてきた。父の許しが出たので部屋へ入っていくと、カラチョーフが歌っている。ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドノフ」の中のものだという。

 帰り際、彼らは大げさに「ボリショイ・スパシーバ」(大変有り難う)と言って私達にキスをする。「スパコイノイノーチ(お休みなさい)」と言ってまたキスをする。

 マカラチョーフは大連工業を接収しているソ連軍技術部隊の司令官であった。ある時、家の外側に付いている石炭庫で音がする。窓を開けると、中国人の石炭泥棒だ。居合わせたマカラチョーフはいきなり空に向けてピストルを放った。

 その何日か後の朝、玄関のドアを開けると、入り口のたたきに茶色い饅頭のようなものが四つ並べてある。それは、大便だった。満人お定まりの復讐である。

 その後、厚生会の仕事は順調に進んだが、お米のご飯など食べられるわけもない。家族の食事は、コウリャンの粥、コウリャンを粉にして作ったパン、粟粥等である。タンパク源は、毎日私が馬欄河の池で釣ってくる「ドジョウ」であった。私たちは少しでも食糧を確保しなければと庭を耕してサツマイモ畑にしたが、非常に粘りの強い粘土質の土には向かず、水っぽくてぐずぐずの小さなものしか穫れなかった。

 それでも昭和二十年の大晦日、厚生会の活動のおかげで、みんなに丸餅やリンゴが無償で配られた。まさか、「お正月にお餅が食べられる」とは誰も思っていなかったので、久しぶりに人々の屈託のない笑顔が広がった。

 

不可解な事件簿・父の「一晩逮捕」

 ソ連の軍人達は毎週のようにやってきた。やがて、マカラチョーフやカラチョーフは家族まで連れてくるようになっていた。母は、本格的なロシア料理をマカラチョーフの奥さんに習うと張り切っていたが、食材の調達もままならず、ボルシチとは言い難いスープがせいぜいだった。それでも、材料お持たせで作ってくれたピロシキは、感動的な美味さだった。

 事件が起きた。その日、父は団地の西外れにある高橋農園の誰か(知り合いはいない)に呼ばれて出かけていた。午後二時頃、今度は中国兵が突然、我が家にやってきた。八路軍の兵士だという。家には、祖母と私だけだった。

 「オトサン、ドコタ」「シッテルトコ ツレテケ」

 彼らはいきなり私に小銃の銃口を突きつけてきた。仕方なく先に立つ私の背中を堅い銃口が押す。私は、恐ろしさを押し殺しながら農園へ向かわざるをえなかった。

 高橋農園に着くと、座敷で軍人上がりらしい若い男が白無垢の着物をつけて父と対峙している。男の前には白鞘の短刀が置かれており、ピーンと張りつめた空気を感じた。武器はすべて没収されたはずである。この人は、やはりただ者ではないなと私は思った。厚生会の行っているソ連軍の仕事を巡って、不正があると「誰かが告げ口した」というのが面談の理由であったらしい。

   私と同行した中国兵達は、白無垢の男に有無を言わさず「ハラを逮捕する」と告げ、父を連行した。男は鋭い目つきでそれを見送っていた。

 解放された私は大急ぎで厚生会へ駆け込んだ。事務所にいた川中さんに父が逮捕された事を話した。川中さんは伊地知さんと連絡を取り、さらに仲間達を集めての相談が始まった。「逮捕の理由は何だ?」・・・馬欄屯駐在署に何回も逮捕の理由を聞きに行ってくれたが、全く埒があかないままゴヤゴヤと朝を迎えてしまった。

 「これからどうするか。マカラチョーフに知らせて、ソ連軍の手を借りるか」などと話し合っているところへ、なんと父がひょっこりと戻ってきたではないか。あっけにとられて言葉も出ないとはこのような状態を言うのであろう。

 父の話では「朝、所長が監房にやってきて『昨日は酔っぱらっていてこんなことになってしまった。申し訳ないことをした。ご免なさい』と言って帰してくれた」んだそうである。

 白無垢の男と短刀、中国兵の出現と父の逮捕、駐在署の署長の謝罪。これは一体どういう出来事だったのだろうか。私には今もって「不思議な出来事」としか考えようがない。

 ただ、この出来事のしばらく後、厚生会がソ連軍などとの会合を開くときには署長に届けを出し、会計帳簿を公開することになったようである。  しかし、厚生会の活動も昭和二十一年秋までだった。仕事の割り振りや、賃金の分配を巡るトラブルが頻発するようになり、それを嫌った父が厚生会の責任者を降りた。昭和二十一年秋のことであった。父は、飲めもせぬウオッカをテーブル下の丼に空けていたが、それでも血反吐を吐くようになっていた。

  一方、マカラチョーフは二十二年早々にモスクワへ帰任するという。最後に訪ねて来た日、父に「一緒にモスクワへ行こう」と盛んに誘いをかけていたことを思い出す。父はジャーナリスト上がり、マカラチョーフもジャーナリストであったということで、二人の友情は深まっていたようである。

鈴子ちゃん

 十月、アカシア葉は黄ばみ、棗の実は茶色いしわを寄せていた。私は家の裏手にある馬欄河のほとりに立ち、河の中央にある射撃訓練場をぼんやりと眺めていた。今は日本軍に変わってソ連軍が使っている。対岸は大連富士から水源地、そして更に奥地に向かって連なる山並みである。

 河のほぼ中央に中州があり、大きなアカシアの木が七、八本一列に並んでいる。その梢に近く、木の細枝を丸く絡ませたカササギの巣がぽつぽつと作られている。

 中納言家持の「かささぎの 渡せる橋に 置く霜の・・・・」という歌から、さぞ優雅な鳥だろうなと想像しがちだが、姿は別として「ぎゃーっ、ぎゃーっ」とけたたましい鳴き声を上げる。私は馬欄河のそんな姿が大好きであった。

 傾く太陽を追うように空を見上げていると、背中の方でかすかに私を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、そこに小さな赤ちゃんをおぶった鈴子ちゃんの笑顔があった。頭を白い布で包んでいる。「やあ、しばらく。元気だった?」と声をかけると、鈴子ちゃんは小さくうなずきながら「うち、今、綿打ち場で働いているん。病気だけん頭を坊主にしちゃったの。もうきつくて・・・」

「秋ちゃんは?」「秋子は前のお母さんといっしょ」・・・・沈黙が続いた。とうとう間が持てぬままに「冷えてきたし、薄暗くなったので帰ろう」と家の前まで行って別れた。

 翌朝、鈴子ちゃんの家が何となくざわついている。弟の洋ちゃんが出てきたので「どうしたの?」と聞くと、「お姉ちゃんが死んだ」という。「鈴子ちゃんが?」洋ちゃんは泣きじゃくりながら頷き、小さな声で「肺病だったの」と言った。私は一瞬信じられなかった。昨日、話をしたばかりだったのに。笑っていたじゃないか・・・・。

 鈴子ちゃんのお父さんはシベリアに送られたらしく、応召した後そのまま消息が絶えていた。だから、二度目の若い母親と洋ちゃんだけになってしまったのだ。私は、すぐ地区の区長をしている父に知らせた。父は厚生会の人たちにそのことを伝え、皆で河原さんの家に駆けつけた。

 顔に白い布をかけられて横たわる鈴子ちゃんの遺体は小さかった。お経を唱え、供養してくれるお坊さんもなく、ただ、黙って座り続ける人々。通夜はこうして過ぎていった。 

 翌日の午後、お経のない葬儀。日が傾かないうちにと、柩をリヤカーに乗せ、西山屯の山の上にある墓地へ運んだ。大人達はスコップで大きな穴を掘り、そこに柩を納めた。その上に、一人一人スコップで土を落とした。水源地の山に真っ赤な太陽が燃えていた。

洋ちゃん

 鈴子ちゃんの弟、洋ちゃんは大正国民学校西山屯分校の三年生だった。鈴子ちゃんが他界し、河原さんの二度目の若い奥さんと、生まれたばかりの乳飲み子、そして洋ちゃんの三人だけになってしまった。

 ところがある日、洋ちゃんの姿が急に見えなくなった。何日も何日も、姿を見せない。おかしいと思って父に話すと、「厚生会の人たちが何か知っているかもしれないな」と言って出かけて行った。

 その夜、私は自分の部屋で読書をしていた。隣の部屋では、父と母が話をしている。そのうち、「洋ちゃん」という言葉が耳に飛び込んできた。私は思わず耳を澄ました。

「あの奥さんを満人の妾にと世話した男がいてね。安蔵という男だ。あちこちにいる食い詰めた女を満人に世話しているそうだ。洋ちゃんも、その男が満人に売り渡したっていう話だ。あいつは、それで大儲けしたと川中君が言っていたよ」。 

 涙が出た。次から次から涙が出た。胸を病んでいる鈴子ちゃんを綿打ち場で働かせ、自分は満人に身売りをし、洋ちゃんまで売り渡さなければ、河原一家は生きて行けなかったのだろう。そして、そのような不幸な家族を満人に売り渡すことによって、ぬくぬくと暮らしている人間がいる。私は、大人の世界の恐ろしさ、冷たさを感じていた。

 翌日、私は河原さんの家をそうっと覗きに行った。誰もいなかった。団地の広場で、鈴子ちゃん、秋ちゃん、洋ちゃん達と隠れん坊や鬼ごっこをしたり、広場から馬欄河に落ち込む縁にある「栗原農園」がたった一本だけ取り残したサクランボの樹から熟れた実を摘んで食べたり。あの楽しかった日々は、本当にあったのだろうか・・・・。

祖母の死と転居

 それから間もなく、祖母が他界した。やはり、リヤカーに柩を乗せ、火葬場から求められた薪や石炭を積んで市内の火葬場へ運んで行った。これを機に、私たちは馬欄屯を後に、大和町に移り住んだ。馬欄屯の厚生会が解散したため、日本人は仕事を失った。そんな折に、父と親しくしていた電気技術者、佐坂さんが、街へ出れば「仕事があるので、原さんに経理を手伝ってほしい」という話を持ってきた。幸い、大和町にソ連軍の接収から解除された家があり、そこに佐坂さんと隣り合わせで住めるようになったからである。

 佐坂さんの長男、幸雄君は中学の後輩であったという。学校はすでに閉鎖され、私たちの時間は余るほどあった。それを良いことに、二人でずいぶんと遊び回ったものだ。というのも、不思議なことに彼はいつもポケットに百円の軍票を束ねて持っていたのである。 赤い十円札の軍票しか見たこともなく、小遣いもない私は、彼に誘われるまま西広場の映画館に通った。

 そのおかげで1946年に封切られた「イワン雷帝」や長編カラーアニメーション映画「石の花」「せむしの仔馬(1947年)」などを観ることが出来た。

 (私の大学生時代、これらの映画は日本で公開された)

 一方、佐坂さんと父との仕事は、必ずしも順調とはいえなかった。十二月から翌二十二年一月にかけて、家族の収入も少なくなり、大連病院前の坂道に家財道具を持ち出しては売り食いで命をつないだ。主なお客さんはソ連兵の家族だった。 

 家の裏手に大連名所「鏡が池」があり、大勢の中国人が池を取り巻くように露店を出していた。私は家財道具を売って得た、僅かなお金でコウリャンや粟を買いに行った。コウリャンや粟には目方をごまかすためか、かなりの小石が混ぜられている。それを取り除くのも私の役目であった。

 こうして、家族五人がひもじいながらもお粥をすするのが精一杯の生活で、ストーブの燃料にまでは手が届かない。どこかで手に入れた紙くずを固くひねって勢いよく燃やし、余熱がさめぬ間に布団に潜り込むという生活が続いた。朝、部屋の天井には、ふわふわと綿菓子のように寝息が凍りついている毎日であった。

 そんなとき、コースチャーという若い一兵卒が我が家を訪れ、「マカラチョーフ大佐殿が父に、大和ホテルまですぐ来て欲しいと言っている」との伝言をもたらした。

 出先から帰ってきた父に伝えると、すぐに出かけて行った。後で話を聞くと、マカラチョーフ一家がモスクワへ帰る船に乗ったところ、奥さんが急に産気づき、日本人の医師を連れて船まで来てくれとのことだったという。知り合いの医者はなし、僅かな伝手を頼って走り回ったあげく、ようやく産婦人科の医者を見つけたので事情を話したところ、「珍しい体験ができる」と同行してくれたそうである。

 赤ちゃんは無事に生まれた。マカラチョーフは体中で喜びを現し、父の手を強く握り、何回も何回も抱擁を交わし「ガスパジーン・ハラ、オーチン・スパシーバ、ボリショイ・スパシーバ」と言って船の人になったという。

引き揚げ

 年が明けた昭和二十二年三月、引き揚げの通知を受けた。家財道具の売り食いともこれでおさらばできるかと、浮き立つような気持ちを押さえるのに懸命だった。家の前にある朝日小学校は中国軍に接収されており、毎日「イー、アル、サン・・・スー」と、訓練のかけ声が聞こえてくる。

 そうこうしているうちに、引き揚げの日程が決まった。三月十二日午前十時、大広場国民学校に集結ということであった。

 当日、私たち家族五人は、一緒に引き揚げる人々と列を組んで目的地へ向かった。持てるだけのものを持ち、着られるだけの衣類を重ね着し、ぶくぶくにふくれあがった人々の行列は、さぞ珍妙なものに映ったであろう。途中、中国人の群れが私たちの行列に襲いかかり、何人かの人々が僅かであったが手荷物を奪われた。

 ところが、私たちが大広場国民学校に着いたものの、建物の中には誰も入れてくれず、その夜は庭で野宿と決まった。寒風を避けるため、持ってきた荷物を半円形に積み上げ、その中に家族みんなが身を寄せ合った。夕食の支給があったが、こうりゃん飯に塩でがりがりに固めた鰊がおかずだった。翌日も、何の指示もないまま時間だけが過ぎて行った。朝、昼、晩の食事は前の晩と同じだった。十四日、今日も何の指示も出ない。食事も同じ。だが、この三晩で多くのお年寄りが亡くなったという。

 陽が落ち、闇が濃くなったため今夜も野宿と覚悟した。ところが明け方になって周囲の様子が急に騒がしくなった。私たちの組の班長さんが「これから税関の検査が始まります。係のソ連兵には、ウオッカをしこたま飲ませてあるので、大急ぎで荷物を転がして下さい」。

 私たちはようやく屋内に入り、グデングデンに酔っているソ連兵の前を、大急ぎで荷物を転がしながら懸命に走った。税関を通り抜けて、ようやく部屋の中で足を伸ばすことができた。暫くするとソ連軍に雇われている通訳らしい男から「これから同志スターリンの好意により砂糖がプレゼントされます」と言うアナウンスがあった。一人一人、僅かな砂糖を貰い、でも、旨そうに舐めている。  昼食を終え、じりじりしていた午後一時頃、「これから乗船を開始する」というので埠頭に向かう。

 岸壁には余り大きくない客船が二隻接岸していた。三井船舶所属の雲仙丸と大阪商船所属の白竜丸だった。私たちが乗船したのは「白竜丸(3128t)」であった。

 十六日、午後四時半出航。銅鑼が鳴り渡り、ボーっという汽笛の音が腹に響く。岸壁では、一列に並んだソ連兵達が手を振っている。思わず「バカヤロー」と叫んだが目頭が熱くなり止めどなく涙が流れた。

 記録によると乗船した人員は千五百名であった。馬欄屯の家に、毎晩のように従卒を連れてやってきたソ連軍の技術部隊司令官マカラチョーフ大佐、赤ちゃんが無事生まれてよかった。従卒のカラチョーフ、「マが抜けているから間抜けの従卒」とよくからかったものだ。いつも靴を無料で直してくれた靴修理専門の兵隊イワンおじさんも歌が大好きだった。アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・タナエフ中尉は、冬、私が中国人に襲われるといけないと、本物のトロイカで大正広場まで送ってくれたっけ。「ヤポンスキー・オーチン・ハラショ、キタイスキー・ニーハラショ(日本人は大好きだけど、中国人は嫌い)」が口癖だった。ナザールはお人好しの伍長だったが、ある時偽のブランデーを売り、それを飲んだ日本人が死んだ。ソ連兵は上官に上着のボタンをもぎ取られると営倉に送られる。ナザールは、もぎ取られたボタン穴を見せながら、営倉入りになったと泣きながら別れを告げにやって来た。彼らは、いつも我が家を訪ねて来たものだ。私の涙はなかなか止まらない。

 白竜丸の船足は速く、翌三月十七日の午後四時、一昼夜の航海の後博多港に接岸した。下船後、アメリカ兵に頭から下着の中までDDTを浴びせら れた後、引き揚げ者収容所に入れられた。そこには、引き揚げ列車のやりくりの都合で一週間ほど滞在した。

 収容所の広い庭の周囲には有刺鉄線の柵が廻らされ、外出は禁止であった。まさに軟禁状態だったのだが、ある日、夕食後に父が「おい、映画を見に行こう」と私を誘い、有刺鉄線の柵を押し広げて外へ出た。しかし、映画館は超満員で入れず、仕方がないので小さな川の畔にある屋台でおでんを食べて帰った。

北海道のはずが東京に

 私達家族の引き揚げ先は、母の生まれ故郷、北海道十勝郡広尾町で、列車の切符も目的地まで支給されていた。ようやく収容所から解放され、引き込み線から上野まで直通の列車に乗せられた。途中、仕事に向かう人々を乗降させながら走るので、車内はトイレにも行けないような混雑ぶりであった。

 一体、何時間走り続けたのだろうか。翌々日の白々明けに鉄橋を渡る音がする。多摩川だ。六郷橋だ。窓を開け、外に目をやると東京は消えていた。いや、遙か向こうに国会議事堂だけがぽつんと見えているだけだった。

 上野駅では夕刻まで青森行きの列車待ちの時間があった。父は「友達の所へ電話をしてみる」と私達から離れて行った。しばらくして、父が息を弾ませ「北海道行きはやめだ。菅原君(故・内村直也氏)に電話をしたら、岸田さん(故・岸田国士氏)一家も今家に同居している。北海道なぞへ行くと、東京に出てこられなくなるから、君たちも家へ来い。師弟同居もいいぞ」ということになったそうだ。昭和二十二年三月二十三日のことである。

 このようにして、神宮前にある菅原さん宅に転げ込んだ一週間後、父の義兄である叔父から消息を尋ねる電話が入った。町田町鶴川大字金井にある村の集会所に住めるよう手配したので来いという。私達はこうして、仮の住まいであるとはいえ家族の生活の場を手にすることが出来たのである。

 私は、一年遅れで赤坂見附にあった日大三中の二年生に編入した。そして、その年の夏から連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が始まった。

尋ね人の時間

 その放送を聞いたのは高校二年生の時であった。引き揚げなどで肉親の消息が分からなくなった人々の情報を求めて、アナウンサーは淡々と原稿を読み上げる。と、その中に「昭和二十年頃、大連市馬欄屯にお住まいの河原秋子さんの消息をご存じの方は・・・・」

 お父さんがシベリアから引き揚げて来たのだろうか。しかし、私には鈴子ちゃんが死ぬ前の日に「秋子は金州にいる前のお母さんと一緒・・・」と言っていた事しか分からず、連絡のしようもなかった。  テレビの時代になり、中国残留孤児の肉親捜しが報道される度、私はあのときの「尋ね人の時間」を思い出す。「もしや洋ちゃんが・・・」と思うと、生々しい思い出がよみがえる。

 戦争は終わりのない悲しみだけを置きみやげにする。そして、時と共に忘れられる。それを語り継がないかぎり・・・・

おわり